海彦・山彦の白秋日記

Ombigaichan 6340m ヒマラヤ襞が綺麗な双耳峰。 この頃はまだ未踏峰だったが・・・今は誰か登ったか?

2014年5月から、新規に解禁された峰が104座になりました。
そのリストが手に入りましたので、添付します。

従来、解禁されてた峰は、エベレスト以下326座でしたが・・・
同年5月21日付けのネパール政府発表によると、
326座中異名での重複や標高の低い峰16座を除外し、
新規に104座を解禁して登山可能な峰が414座になりました。

16座の除外リストです。
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新規に解禁された104座のリストです。
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2015年1月1日から登山料金が改定されました。
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今までは、隊の人数で料金が設定されてましたが、
今年から一人当たりの設定のようです。
国立公園への入園料は従来通りと思われます・・・
サガルマタ国立公園(エベレスト周辺)は、3930ルピー。
アンナプルナ国立公園は、2000ルピー。公園によって料金に差がある。
1ルピー=0.9~1.0円

これを見ると、厳しい冬期や雨期の料金が格安になってます。
雨期に4千m辺りまでの、高山植物見物ツァーの料金が下がるかも・・・
また、5800m未満の峰に登るのも料金が無料・許可不要とか・・・
国立公園への入園料のみの出費で済みます。

暇を見て、緯度・経度を頼りに、1/5万地形図で解禁峰を特定したいと思ってます。


追記 竹内洋岳氏が挑んだ、マランフラン峰が解禁リスト103番に載ってます。

   北米最高峰のマッキンリーが山名変更
   オバマ大統領が、デナリ(アラスカ原住民の呼称)に統一すると発表。


男性1人の遺体を発見、1人は不明 北秋田市森吉・滝つぼ転落事故(魁新報Web記事より)

 秋田県北秋田市森吉の太平湖近くの渓谷・小又峡で沢登りをしていた男性2人が滝つぼに転落した事故で北秋田署と消防が17日朝から現場付近を捜索し、午後3時ごろ、滝つぼから埼玉県三郷市、病院職員荻野寛之さん(34)の遺体を発見した。もう1人の横浜市緑区、神奈川県警警察官信太(しんた)正樹さん(35)は見つからず、18日も捜索する。

 捜索は16日夕と、17日朝から日没にかけ、約30人態勢で実施。滝つぼは増水して渦を巻いて危険だったため、潜水による捜索はできなかった。このため棒で滝つぼの中を探るなどした。荻野さんの遺体は県警ヘリなどで北秋田署に運ばれた。

 同署によると、2人は16日午前9時半ごろ、他の仲間2人と計4人で太平湖グリーンハウスから遊覧船に乗って対岸の小又峡に入山。尾根筋の縦走ルートを歩いて上流に向かい、遊覧船の降り場から約2キロ進んだ地点でルートを外れて沢に降りたとみられる。

 4人は「三階滝(さんかいのたき)」の上流約50メートルの地点にある滝(落差約3メートル)で沢登りをしていたが、荻野さんが午後0時半ごろ、滝の中腹で足を滑らせて約2メートル下の滝つぼに転落。荻野さんを助けようとした信太さんが滝つぼに飛び込んだとみられる。2人ともザイルや命綱は着けていなかった。


ニュース画像で見ましたが、あの水量で入渓したとは・・・
盆休み最後の日曜日、遠征組の彼等にとっては、
一日減水を待つ余裕が無かったのでしょう・・・・

同日、源流部の桃洞沢→うさぎ滝をトレースした方の画像を見たが、
格段水量が多いと思えなかった・・・
沢の上部と下部では、斯くも水量が違うものか・・・

事故原因 ①増水した沢に敢えて入渓。  ②ザイル持参も使用せず。
「山岳事故の8割は足元に有り」と云うがまさに、そんな事故・・・


追記 19日正午過ぎに、同滝壷から信太さんが発見されました。


今回の事故以降、森吉山ネイチャー協会のHPには、下記の記載が追加されました。

小又峡の沢登りについて
<必読事項>
●三階滝から上流部最後の親滝までの沢登りは困難を極めます。
 落差15m前後の滝と甌穴が連続し延長20~100mの深渕でつながっています。
●渓床は歩行が困難かつ岩盤には適所にクラック(割れ目・裂け目)がないため
 ハーケンやカムの使用は殆んど不可能です。
●したがって、連続する滝を登るには泳ぎに加え渓谷の両サイドの灌木帯の
 急斜面を高巻きしたり、比高100m前後の尾根筋や縦走路までを何度も迂回
 することを余儀なくされます。
●一番怖いのは渦が荒くれ、沸騰状態になっている滝つぼや甌穴に落ちると
 浮力を失い溺れることになります。(2015.8.16の遭難事故はこの状態に近かった
 のではないかと推察されます)
●さらに、滝の頭部に隠れている甌穴に全水量が入り込んでいる個所、
 滝つぼや甌穴の底が抜けてトンネル状になっている個所が随所に存在する
 ことを肝に銘じてください。
●渓谷を踏破すならば、上流部から順番にビレイポイントを構築して降下する
 より方法はないと考えます。勿論、ライフジャケットの着用、相互の安全確保、
 登攀遡行技術の練度が前提である。
●したがって、小又狭の沢登りは推奨できません。
 <沢遊びや遡行は、桃同・赤水渓谷とその周回ルートを推奨します>

   

資金稼ぎ④ の続きで、
十和田湖の八郎太郎・田沢湖の辰子姫伝説を紹介します。


発掘作業中に、黒土の間に白くシャリシャリする、
十和田火山灰の層が有りました。
平安時代の延喜15年・西暦915年に噴火した時の火山灰です。
これは史書にも記載が有り、大噴火だったようです。
更に発掘が進むと、黒土の下に水分を含み粘土化した火山灰層が・・・
1m~2mも堆積してました。
その層には、火砕流か爆風でなぎ倒された丸太が多数埋没してました。
興味が有ったので少し調べて見ると、
十和田湖は過去3回の大噴火で出来たカルデラ湖でした。
最初の噴火は、1万5千年前 現在の湖面全体で外輪山が形成されました。
2度目の噴火は、5400年前 現在 中の湖 と呼ばれている湾です。
3度目の噴火は、915年前 御倉半島の先端の御倉山溶岩ドーム形成。

粘土化した火山灰は、最初の噴火で降った火山灰。
黒土に含まれる火山灰は、3度目(平安時代)の噴火で降った火山灰です。

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では、十和田湖に纏わる伝説を紹介します。

【八郎太郎伝説】
平成10年 鹿角地方部発行 鹿角の伝説 より抜粋

龍となる
今から何千年も前の昔のことである。草木村(現鹿角市大湯草木)の保田というところ
に、八郎太郎という名の17歳の若者が住んでいた。八郎太郎は体が大きく、身長が6尺
(1.8メートル)もある力の強い若者であった。
 
八郎太郎は、マダの木の皮(蓑などの材料として使う皮)を剥いで集めたり鳥や獣を捕
り、それらを売って両親を養っており、村でも評判の良い若者であった。
 
ある日のこと、八郎太郎がマタギ仲間の三治と喜藤と一緒に三人で遠くの山に、泊まり
がけでマダの皮剥ぎに出掛けていたときのことである。八郎太郎が炊事当番の時、水汲み
のため川に出掛けると、川の中に岩魚が三匹泳いでいた。八郎太郎は、その岩魚を三匹捕 まえ、三人で一匹づつ分けて食べようと串に刺して焼いていた。

そのうちに、こんがり焼 けた美味そうなにおいに耐えきれず、仲間が戻ってくる前に魚を一口食べてみた。そのあ まりのうまさに、「なんと、美味しいんだろう。おら、今までこんにうまいものを食っ たことがないや。」と独り言を言いながら、知らず知らずのうちに一匹全部、そして残り の二匹も食べてしまった。

間もなく八郎太郎は焼けるような喉の渇きを覚え、そばに置い てあった桶の中の水を一口飲んだ。しかし渇きは止まらず、全部飲み干してしまった。
れでも、ますます喉は渇くばかりであり、ついには川の流れに顔を付けて川の水を飲みは
じめた。そして、飲みに飲んで日の暮れるまで休まずに飲み続けた、ふっと顔を上げたとき、八郎太郎は流れの水面に映った自分の姿を見てびっくりしてしまった。そこに映って
いるのは、大きな火の玉のような真っ赤な目をした龍であった。八郎太郎は、いつの間に
か龍になってしまったのである。
 
山から戻ってきた三治と喜藤もこの有り様をみてびっくりし、「八郎太郎、お前どうな
ったんだ。ここはひとまず小屋へもどろう。」と八郎太郎を小屋へ連れていこうとしたが、
八郎太郎は、「俺は化け物になってしまった。俺は、もう水から離れられない体になって
しまったのでどこへも行けない。ここに湖を築き、この湖の主として住むことにする。親
にはよろしく伝えてくれ。」と言うだけであった。
二人の仲間もどうすることもできなく、仕方なく八郎太郎に別れを告げて草木の村に帰
って行った。
こうして、大きな龍になった八郎太郎は、10方の沢から流れる水をせき止め十和田湖を
築き、深い湖の底に住む主となった。

南祖坊との戦い
千年以上も昔、南祖坊と言うお坊さんがいた。南祖坊は「弥勒(みろく)の出世」(悩
めるたくさんの人々を救う仏様が現れること)を願い、紀州の熊野山にこもって願掛けを
していた。その願掛け最後の夜、お堂の中で思わずトロトロと眠っていたとき、夢枕に白
髪の老人が立ち、「お前の願いをかなえてやろう。だが、その前にお前は竜にならねばな
らない。ここに鉄のわらじと杖を置くから、杖の教える通りに歩きこの鉄のわらじと同じ
ものを探しなさい。そこの場所がお前の願いをかなえる場所である。」と言って消えた。
 
喜んだ南祖坊は、さっそく日本全国の山や湖を巡り歩き、一番最後にやってきた場所は
神々しく美しい眺めの十和田湖であった。ふっと見ると、そばの洞窟の中に鉄のわらじが
置かれていた。「ああ、神様が知らせてくださった場所はここであったか。これから、私
はここに住むことにしよう。」と言って、湖の岸の上で、お経を読み始めた。その時、湖
の底から「おい、こらあ。おまえは、つまらん人間のくせに、このような尊い場所へ来る
んじゃない。さっさと立ち去るんだ。」と天地に響くような大きな声がした
南祖坊は、「お前は何者だ。ここは私が住む場所だ。私は神様のお告げで、この湖の主
になることになったのだ。」と静かな声で言った。
「なんだと。ここは何千年も前から俺が住んでいるのだ。立ち去らないとお前を飲み込
んでしまうぞ。」その大声と同時に、天地が震え、大波の荒れる湖の上に八つの頭をもっ
た大きな龍が浮かび上がってきた。そして、16本の角をふり立て、口から火を吹き舌を巻
き上げて、南祖坊に飛びかかってきた。
 
南祖坊は静かにお経をとなえ、八郎太郎めがけてお経を投げつけると、お経の一字、一
字が剣となり八郎太郎の龍の体につきささった。さらに南祖坊がお経を衣の襟に刺すと、
南祖坊も九つの頭をもつ龍に化け、八郎太郎の竜に向かって戦いを挑んだ。また、一方の
八郎太郎は自分の着ていたケラの毛1本、1本を小さい龍に変身させ、南祖坊へ噛み付か
せた。
 
こうして、お互いの命をかけた激しい戦いは七日七晩も続いたが、さすがの八郎太郎も
最後には南祖坊の法力に負けて、真っ赤な血を流しながら、十和田湖の御倉半島をはい上
がって、どこへともなく逃げて行ってしまった。御倉半島の五色岩、千丈幕、赤根岩の色
が赤いのは、八郎太郎の流した血の跡と伝えられている。

平安時代の3度目の噴火の様を、八郎太郎と南祖坊の戦いに見立てて、
この伝説が生まれたのではないでしょうか?

この画像が、龍と化した八朗太郎が流した血の跡と言われてます。
2度目の噴火で出来た 中の湖 の火口壁に堆積した噴出物です。
鉄分が多いので今でも赤褐色なのか???
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八郎太郎と南祖坊の激しい戦いで湖面から溢れた水が、
奥入瀬渓谷を造ったとも伝えられています。

八郎太郎が逃げて居なくなると、間もなく十和田湖はもとのように静かになり、南祖坊
は深い中の湖の底に潜んで、湖の主となった。
 
鹿角の神々との争い
南祖坊との戦いに敗れた八郎太郎は、やがて生まれ故郷の鹿角に帰って来た。青垣をめ
ぐらしたような山々の高い場所に登り、鹿角中を眺めわたすと、西の遠方に、米代川、小
坂川、大湯川の三つの川の合流地点に狭い谷あいの場所を見つけた。

ここは、今でも山と山の狭間で、大量の火山灰泥流が堆積し、
ダム湖が出来た場所かも・・


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図中のピンク色堆積物が毛馬内火砕流の元と言われてます。
火災流は大湯川沿いに降り、土石流となって米代川に流れ込んだようです。
この土石流の流れ降る様子を、龍になった八郎太郎に見立てたものではないでしょうか?


この場所は、右に男 神(イザナギの命)、左に女神(イザナミの命)を祭っている場所であり、それぞれ木製 のご神体が岩穴の中に祀られているという場所である。八郎太郎は早速、米代川をせき止 めて自分の住む湖を作るため、男神と女神の間に近くの茂谷山(もやさん)を背負ってき て埋めようと考えた。


そして、鹿角じゅうの葡萄のつると藤のつるを集め、きな綱を編 み、茂谷山を背負うために綱を山へ掛けた そのことに気づいた鹿角の42人の神様たちは、ここを八郎太郎によって湖にされると自 分たちの住む場所がなくなると心配し、皆が集まり相談した。

この神様たちが集まって協 議した場所が、現在の集宮(あつみや)の地名となっている場所と言われている。神様た ちは、八郎太郎を追い出すことに決め、石ころを投げて八郎太郎と争った。今でも、毛馬 内の陣場のあたりには大きな石や小さな石が多くあり、これらの石は、「神のつぶて石」 (神様の投げた石)と言われ、八郎太郎を追い出すために神様たちが投げた石と伝えられ ている。

鹿角民話の会 資料より抜粋 
南祖坊に敗れて十和田湖を追いやられた八郎太郎は、新しい住みかを求めて米代川を下っていった。
しばらく行くと、北は籠山、南からは七座山が迫っている北秋田都と山本郡の境あたりへやってきた。そこはとても景色のよい所で八郎太郎は大そう気に入り、川の一部をせきとめて一大湖水をつくり、そこを第二の安住の地にしようとした。
ところが困ったのは七座の神々であった。何とかしてほかの地へ追いやろうとして神々が集まって相談したが、なかなかよい案はうかんでこなかった。そこで、いちばん信望のあつい七座の天神様に一切を任せることにした。
七座の天神様は八郎太郎を呼んで、力くらべをしようと持ちかけて、近くにあった大きな石の投げ比べをした。見事に勝った天神様は弱気になった八郎太郎に、下流にも広々とした住みかがあり、一夜にして大湖水にしてやると勧めた。そして早速、千匹の白ねずみを集めて、八郎太郎の住む湖の土手土手に穴をあけさせた。
この話を知った下流のねこたちは驚いて、白ねずみたちに襲いかかり、三日三晩、死にものぐるいの戦いが続いた。それを見かねた神々は、ねこたちを説得して、ようやくねずみたちは堤に穴をあけることができた。
果たせるかな、ねずみたちがあけた穴からは次々に水が流れ出し、それが大洪水となって、八郎太郎はこの流れにのせられて米代川を下っていったのである。

七座山の画像です。左が上流・米代川が大きく湾曲して流れてます。
ここにも土石流が堆積しダム化したのでしょう。
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ウィキぺディアより抜粋
 江戸時代のこの地区の古文書に次のような記載が「大同2年潟の八郎という異人が七倉山の所で米代川をせき止め、鷹巣盆地は三年にわたって水底となった」(文化十四年丑六月洪水記録」より)

この伝説は、実際に起きた自然災害との関わりが指摘されている。915年十和田湖にあった火山は2000年来最大とも言われる大噴火を起こす。この噴火によってもたらされた噴火降下物は各地で堆積し、自然のダムを造った。ダムは周囲を水浸しにしながらも最終的に決壊し、各地で大洪水を起こす。秋田県北秋田市の胡桃舘遺跡もこの時の洪水によって地下に埋まった遺跡である。そして、まさにこの被害を受けた地区に八郎太郎の伝説が残っているのである。
たとえば、南祖坊と八郎太郎の七日七晩の戦いは、稲妻を投げ合ったり、法力を駆使したりの壮絶なものであるとする表現があるが、これが十和田湖火山の噴火の様子を記述しているという人もいる。また、七座山の伝説に残っている「白鼠」は火山降下物が堆積し流れ下るシラス洪水なのではないかと指摘されている。
このことは、1966年に平山次郎・市川賢一によって「1000年前のシラス洪水」という論文で発表されている。

米代川を降った八郎太郎は、
男鹿半島の砂洲で出来た大きな潟を安住の地と決め、主となった。
これが後に八郎潟と呼ばれた由縁です。

次に辰子姫伝説】です。
 語り・高橋茂子(あきた民話の会・美郷町在住)
 
 昔々、院内の神成沢に三之丞と言う家があって、辰子って言う娘と阿母ど暮らしてえだけど。辰子は、まんじ綺麗な娘っ子で親切だったがら、辰っ子ど好がれでえだけど。
 ある日、水鏡さ自分の姿映して「老えだぐね。今だばみんなに綺麗だど言われるども、四十年位経てば阿母みでに白髪になったり、腰まがったりするべな」と思って、観音様に願掛けようど決めたどよ。背中さ平らな石背負って、百段目に辰っ子は疲れて観音堂の前で居眠りしたば、夢枕さ観音様現れで「辰子、お前の願いは人間として叶う事ではないぞ」。「人間でなくてもえんし、若ければ」。「そうか、それ程言うならかなえてやる。北の方に清い泉があるがら、その水飲めば若くなっていられるぞ」と告げて消えてしまったけど。
 春になって薬師峠の北の方さ友達と山菜とりに行ったど。いっぺとったば、観音様のお告げの泉があったけど。その水いっぺ飲んだば、手足が伸びで見るも恐ろしい龍の姿になったげどよ。「あーっ」と叫んだとたんに雷雨が滝の様に降ってきて、辰子は泥水の中に引き込まれだけど。それ見だ友達がアバさ知らせに行ったば、気が狂ったようになって村のオド達さ助けをたのんだど。
 囲炉裏にあった燃えさしを灯りとして辰子を探しに行ったば、今まで見たこともね大きな湖が出来てえだっけど。アバとオド達は夢中になって叫んだば、水面が波立って恐しい龍が現れだけどよ。「お前辰子でねで。早く辰子どご出して」。したばきれいな辰子が出てきて、「アバ、オド達ごめんな、さわがせで。いつまでも若ぐなっていでして観音様さ願掛けて、この姿になったなだ。そのかわり、水屋さ魚おくるから」と言って、湖の中に沈んでしまったど。
 
囲炉裏の燃えさしを明かりに、辰子を探しに行って龍が現れて驚き、
燃えさしを湖面に落すと、それに尾鰭が生え国鱒になったと・・・
以後ジジとババは国鱒を採って生計を立てた。
と言う言い伝えも有ります。

 語り・尾形雅子(あきた民話の会・横手市在住)
 
 山の雪も解けて、里にカタクリの花が咲く頃になると、田沢湖に渡って来たカモ達も、北の八郎潟に帰って行った。田沢湖の主・辰子姫は冬の間、カモ達から、いろいろな話を聴くのを楽しみにしていた。その話の中で、人間から龍になってしまった八郎太郎の話を聴いた。辰子は自分と同じ身の上の八郎太郎に逢ってみたいと思うようになった。
 春になって、八郎潟に帰ったカモ達は、早速太郎に辰子の気持ちを伝えた。八郎は喜んで、冬になったら田沢湖に行ってみようと思った。
 あられが降る頃、辰子はカモ達からの知らせで胸をときめかしながら八郎を待っていた。田沢湖に着いた八郎太郎は「なんと田沢湖は水がきれいだし、山の姿もすばらしい。それより辰子姫はもっと美しい。ここで一緒に暮らせたらありがたい」と言う。辰子はうれしかった。こうして八郎は冬の間、仲良く暮らし、春には八郎潟に帰った。
 ところがある年、辰子に恋していた十和田湖の主・南祖坊は、二人の仲を裂こうと攻めてきた。しかし、辰子を必死で守る八郎太郎の気迫に負け逃げて行った。
 それから毎年八郎潟が荒れる頃になると、秋田から河辺、仙北の宿屋に立派な身なりの旅人が泊まっていくようになった。この旅人は、西木村西明寺の、ある宿屋に旧暦の十一月に決まって泊まるという。宿屋の人には「部屋を絶対に覗かないように」とたのんだ。
 ある年、宿屋の老婆が夜中に覗いてしまった。部屋には大蛇が、とぐろを巻いて寝ていた。怒った旅人は二度と泊まりに来なかった。その宿屋はある年、大洪水で宿屋もろとも老婆も流されてしまった。旅人は八郎太郎であった。
 今でも辰子は冬になると、八郎潟から逢いに来る八郎太郎を待ちこがれているという。
 田沢湖は二人の愛の熱で凍ることはなく、二人の愛の深さで年々深くなり、日本一になったということである。

なので冬、八郎太郎が留守にする八郎潟が凍結すると云う伝えも有るが、
水深が5~10mより無く当然凍結するし、
一方の田沢湖は水深が423mも有り当然不凍湖な訳です。
何か興醒めですか・・・



田沢湖畔に佇む 辰子像
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十和田湖の八郎太郎伝説・田沢湖の辰子姫伝説、いかがでしたか?


 

発掘調査の土方バイトも、早いもので2ヶ月経過・・・
連日の暑さ(熱さ)に、溶けそうに為りながらも、
風呂上りのビール目当てで頑張ってます~~

今日、ディナフィット・テストセンターから連絡が・・・
2014-15モデルのデモ用を払い下げるとの事。
PDG板とTLTスピードターンを申し込んでいました・・・
以前から欲しいと思ってた、山スキー板と金具です。
PDG板 9万+スピードターン3.8万で12.8万(本体価格)もするのです・・・
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高価で手を出せずに居ましたが・・・
連絡では、
PDG板に専用シールを付け税込み5万、TLT金具は2.5万、
数量限定なのでお早めに返答を・・・との事。
15万9840円を7.5万で買えるのです。
悩んでしまいます・・手持ちの板+金具の最軽量は片足で1750g、
これだと1139gこの軽さは魅力です・・・遠征資金転用か????
早々に返答しなくては。。。。


さて・・
発掘現場で、1万6千年前の火山灰層に、
火山の爆風か?火砕流?で倒された木が多数発見された事は、以前に述べました。

この木が倒れてる方向から、田代岳か八幡平焼山の火砕流と、
思ってましたが結論が・・・

火山灰の年代測定から、1万6千年前の物と言うのは判明してたそうです。
問題は何処から来た火山灰か?
灰の分析から、十和田湖カルデラの大爆発で周辺に降り注いだ物とほぼ同一とか。
八戸辺りにも堆積してるとか・・・
発掘現場から十和田湖までは直線距離で40キロ、
地形にもよるのでしょうが、発掘現場には1mから2mの厚さで堆積してます。

それと、十和田湖の大爆発で 毛馬内火砕流 と呼ばれている大火砕流が発生し、
大湯川・米代川沿いに流れたことが判りました。
この大火砕流を、龍 に置き換えて見ると・・・

・・・・・・・・・・
十和田湖には、八郎太郎伝説が
田沢湖には、辰子姫伝説が
どちらも噴火によるカルデラ湖。
噴火の様を、暴れる龍に喩えたものではないでしょうか
次には、この伝説を紹介しましょう
・・・・・・・・・・

このマーブル模様は、火山灰に含まれた軽石が、
長期に亘り水分を含んで劣化した物とか・・・
大きい物は直径10センチも有ります・・・
ザラザラの軽石だったのが、今は粘土状になり辛うじて形を残してます。
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火災流か爆風による、倒木痕。 電柱ほどの太さです。
木の表面が焼けた跡が判ります・・・
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木質が腐って黒土になってますが、中に焼けて炭化した炭が有りました。
炭を分析すると、何の木か判るそうで、当時の植生や気温も判るそう・・・
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焼けた跡がはっきりと・・・
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長い木は8mも有ります・・・直線なので針葉樹か?
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今日は発掘調査が休みで、PCで遊んでたら、竹内氏の記事を見つけました。

〝未踏峰〟この3文字は、山登りを始めてからずーーっと憧れ~
この歳になっても、何と心躍る文字でしょうか~~

。。。。。。。。。。。。。。。。

記事を要約すると、
竹内氏がこの山の存在を知り調べるも、
北面から無許可で登頂を試みた者(ポーランド人)が居た以外は不明だったそう・・・
ネパール政府の登山解禁310座のリストに無く、当然登れない山です。

観光局が、新規に未踏峰を解禁する噂の中に含まれるのかも判明せず・・・
2014年の2月に偵察山行をしたとか・・・

2014年5月に観光局が、新たに104座の解禁を発表。
その中に マランフラン6573m が在り、即登山許可を取得したとか・・・

2014年10月にマナスル登頂後で、高度順応も出来てるし・・と向かった。
4900mにBC 5200mにABC 5400mにC1設置。
ワンビバーク覚悟でアタックするも、5900mで時間切れ撤退・・・

竹内氏は、次回はタクティクスを組み立て直し、更にHCを設置して挑むと・・・

。。。。。。。。。。。。。。。。。

これを読んで思った・・・
あの竹内氏が、未踏峰で情報無しとは言え、
たかが6600でこんなに手古摺るものかと・・・
BC→ABC間が300m、ABC→C1間が200mより有りません、
キャンプ間が標高差で、200とか300なんて信じられません・・・
次回は、更にHCまで設置して登るとは・・・・

未踏峰ゆえ、資料が無く登攀ルートやキャンプ位置に大変苦労したのは判ります。
戦後の大学山学部や、高度成長期の社会人山岳会が、
ヒマラヤ未踏峰を目指し、偵察・試登を繰り返し、敗退⇒栄光を掴んだものです。
彼は今、それをしようとしています。
彼は、そんな時代を思い、今自分がしてるのは〝探検ごっこ〟と表現してます。
巨峰14座完登者と言えども、既存ルートからの登頂が13座。
何処がどう為ってるか? 資料が全て有るのです・・・
そんな意味で、14座完登を余り評価してませんでした・・・(無酸素登頂は評価)
寧ろ、山野井氏の山行スタイルを評価してます。

山嶽部時代を思い出しました・・・・
当時、槍・穂高は長野県側からの記録が多く、
岐阜県側からの記録が少なかったのです。
そこで、飛騨側研究を・・・と、リーダー会で決定。
降雪までに偵察山行を終え、キャンプ予定地・FIXザイルの量を決めて、
冬山・春山の合宿を組んだものです・・・
3000mとは言え、知らないルートから一気に登るのは難しいです。
在部期間に、全ての飛騨側(西穂西尾根から槍西鎌尾根間)からの、
登山は出来ませんでしたが、心躍る思いが有りました・・・

この マランフラン6573m が気になり調べました。
●マカルー・バルン国立公園エリア内に在る
●アマダブラムから見える
この2点の情報で、マカルーやバルンッエの傍に在ると思い込み、
ネパール政府発行の1/5万地形図で調べましたが、見当たらず・・・
諦めかけて、アマダブラム周辺を見たら、何と真南5キロに在りました・・・
マランフランから更に、
11キロ南下すると、2010年秋に登ったメラ中央峰が・・・・
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カンティガやキャシャールの鋭鋒も西に在ります。
2010年秋にメラ中央峰を登った時、
アマダブラムやエベレスト方向(北側)撮った写真が有るはず・・・
探すと、三枚有りました~~画面左に、三角峰が3座映ってます。
これの右側の白い三角峰が、2本の氷河の位置からしても、
地図上の マランフラン6573m に違い有りません。

アプローチは、メラBCのカーレ手前から、
左側の谷に入り氷河湖の有るモレーン帯(画像・褐色の谷)を進み、
右のハンク・シャール氷河に入る。
左からの降りる2本の氷河を巻いた処が、BCと思われます。
以後、この岩稜(地形図に赤線)を登攀して登頂かと・・・
赤丸印が、マランフラン  赤ラインを試登。
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2010年秋にカーレBC(5100m)から撮った、マランフラン峰
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メラ峰ハイキャンプ(5,700m)から撮ったマランフラン峰
                        
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彼の撮った マランフランの画像です。
左の岩稜を5900m(雪稜の手前の小ピーク)まで登って、後700m残して撤退、
彼は、この岩稜を剣岳のようだと表現しています・・・八ッ峰でしょうか・・・
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試登した岩稜ライン

この秋にも再挑戦するかも知れません、ワクワクしながら吉報を待ちたいと思ってます。

追記 10月4日
竹内氏のHPでは、次回挑戦時期は未定と為ってます。
アプローチが比較的いいし、氏の試登情報も流れ、必要装備の目安が立つので、
来春には誰かに登られそうな感じがします。

追記 11月16日
マランフランの記事にアクセスが多いので、判り易い様に画像に赤ラインを入れました。

6月1日から始めた資金稼ぎも、2ヶ月に為ろうとしてます。
6月分の土方代で、何とか現行成田⇔イスラマバード間のチケット代確保。

空梅雨で連日の猛暑、日陰のない平場での土方業は疲労度倍加。
でも、興味深いことが有りました・・・

30~40cmに堆積してる黒土を剥ぐと、
太古の火山灰層(軽石を含む)が現れました・・・
この黄色い地層は、1万6千年前の噴火により降り積もったものとか・・・
更に幅2m・深さ60cmほど掘ると、
火山灰層の中に、当時自生してて噴火の爆風か? 
火砕流でなぎ倒された木? が現れました。

このピットでは、直径50cmほどの木と10cmほどの木が・・・
イメージ 1

このピットでは、4本の木が朽ちてますが痕跡がはっきり判ります。
イメージ 2


イメージ 3
このピットでは、倒木痕の断面が確認出来ます。
イメージ 4

どのピットも幅2mで南北に掘ってますが、
斜め45度で倒れた木の痕跡が有ります。
南東か北西の方向から、火山の爆風か? 火砕流か? が、原因で倒れたらしい・・・
その後、火山灰が60cmほど積もったことになります。

考古学と言うよりは、地学に近い領域ですが・・・
今後、この倒木痕の前後を堀って、上手く根っ子部分なり、
枝の部分が見つかれば、どの方向からの風圧で倒れたことが判明するらしい。

地形図上では、この倒木の延長上に、
北西には田代岳・南西には八幡平焼山が有ります。

倒木痕には一部焼けて炭化した部分があり、
サンプルを 放射線炭素14の年代測定をすれば、
その木が生えていた年代が判明するそうです・・・・

何ともロマンの有る話・・・

前回〔冬期・田代岳新ルート模索中〕の記載をしましたが・・・
このルートの記録が無いものかと、田代岳を検索中に、意外な記述を発見しました。

1965年(昭和40年)12月1日発行 あきた(通巻43号・全64ページ) の中に、
2ページにわたり「ふるさとの山」と題して田代岳が紹介されてました。
筆者は、田代町役場広報係 石川良一氏です。

氏の紹介文の冒頭に、
田代岳は、鳥海火山脈に属するトロイデ型(釣鐘型)の休火山である。と、記述。
九合目の高層湿原に、山小屋設置の計画が有るとも記述してます。
更に、高層湿原の名称を 神の田 と記述してます。


休火山?これには、驚きました・・・
山容からしても、確かに山頂はドーム状ですが・・
火山の件は、後に記します。

登山コースの紹介と概念図が有りました。
当時、利用されてたのが、
①大野口(薄市沢) ②荒沢口 ③板沢口 ④マンタ平口 の4コースです。
(現在一番利用されている、大広手口コースの記述が有りません。
昭和40年頃は、まだ大広手からの道は無かったものと思われます。)

①薄市沢までは、当時から林道が有ったらしく、
大野部落から木材運搬のトラックに便乗して、3合目の登山口に至る。と記述。

②④コースについては、越山部落から大淵岱部落(現在は山瀬ダム湖に埋没)まで歩き、そこから旧森林軌道跡(トロッコ道)を歩き登山口に至る。と記述。

③コースについては、大淵岱部落の手前から、板沢林道に入る。と記述。

(各コースの詳細ですが・・・薄市沢・荒沢コースは、現存してるので割愛しますが、板沢・マンタ平コースは、現在廃道と為ってます。)

〔板沢コース〕の紹介文
大淵岱部落の手前から板沢林道に入る。
途中左に平滝開拓を見ながら赤倉鉱山跡を通り、稜線に出る。
ここでマンタ平口からの道と合流し、展望がきき楽しめるコースである。

〔マンタ平コース〕の紹介文
大淵岱から割沢まで旧森林軌道跡を通り、ここからマンタ平を通って、
標高880mの稜線に出る。
ここで板沢口からの道と合流し、
展望のきく稜線づたいに登ると左下に赤倉鉱山(廃山)の赤い地肌が、
栄えた昔の面影もなく見える。
鉱山の赤土が見えなくなる頃から、急な痩尾根となり最大難所にかかる。
この難所を30分辛抱すれば、急に眼前がひらけて、九合目湿原である。
このコースは、山頂からマンタ平までスキーツアーコースとしても楽しめる。

(昭和40年代に既にスキーコースとして使われてたようです。今回の新ルート模索では、地形図の1006mピーク下の1000mから派生する2本の尾根を登・下降路の対象として考えています。)

板沢からのコースを現在の地形図で見ると、
板沢から標高650mまでは実線で表記されてますが、
その先880mでマンタ平からのコースと合流する道の表記が有りません。
鉱山跡の表記もなく、そこと思われる地点一帯には崩壊マークが表記されてます。

マンタ平からのコースは、現在の地形図に破線で表記されてます。
割沢とは、マンタ平と思われる緩斜面一帯の西側の沢と思います。
しかし、ネット検索中に見た九合目分岐点標柱画像には、
マンタ岱→廃道 と有ります。
(実は無雪期に田代岳に登った事が無いので、この標柱の存在は知りませんでした。)
マンタ平でなく、マンタ岱との表記。
標柱の設置者は、田代ライオンズクラブ。
昭和40年以降に大広手コースが出来てから、
利用されず廃道に為ったものと思われます。

マンタ平コースを赤色で、板沢コースを黒色で、作図してみました。
板沢コースの点線部分は、標高880mでマンタ平コースと合流と記述されてたので、
想像で880mに至る様に作図しました。
火山だった頃の噴火口・爆裂口も入れてみました・・・
イメージ 1

赤倉鉱山は、図中の赤倉爆裂口(赤破線丸内)の板沢コース上の、
何処かに有ったと思われます。


赤倉鉱山については、 
閉山となった鉱山 越山地域まちづくり協議会 が記述した資料を見つけましたので、
以下添付します。

イメージ 2
上記の資料によると、昭和初期にはここで300人超が暮らし、
小学校の分校も有ったようです。



次の話に進みます・・・・

田代岳 火山説について

国立研究開発法人 産業技術総合研究所 火山研究部門の研究データの中に、
第四紀火山 に関した資料が有りました。
第四紀火山とは、180万年から現在迄に出来た火山を指すそうで・・・
田代岳は60万年前以降に出来た火山だそうです。

この第四紀火山の一番古い山が、何と槍ヶ岳・穂高連峰と剣岳とか・・・
180万年から170万年前に形成され、その後山体の大半は侵食で失われ、
現在の見えてる部分は火山の芯の部分だそうです。

イメージ 3
この図が、第四紀火山の表示ですが、
東北地方の火山は、Dの何番という管理のようです。
この番号毎に詳細なデータが記載されています。
因みに、田代岳はD16と表示されてます。


・・・・・・・・・・

ちょっと一息、近辺の山の古い順

八幡平火山群 D22   120万年前以降に形成

南八甲田火山群 D09  110万年前~30万年前に形成

森吉山 D25   110万年前~70万年前に形成

月山 D49   90万年前~30万年前に形成

岩手山 D31   70万年前以降に形成

岩木山 D15   65万年前以降に形成

鳥海山 D39   60万年前以降に形成 1801年享和ヶ岳(現・新山)誕生

北八甲田火山群 D10   40万年前以降に形成

秋田駒ヶ岳 D29   10万年前より新しい



侵食されて、なだらかな山容の山が、古い時代からの山のようです。
鳥海・新山ドームは江戸時代に当時の年号から、享和ヶ岳と呼ばれていたようです。


・・・・・・・・・・


日本火山学会の研究論文中に、秋田県北部田代岳の地質 と題した、
秋田大学・鉱山学部(現 国際資源学部)の阿部泰久・山元正継氏の論文を見付けました。1988年発表の論文です。
イメージ 4

専門用語でよく判りませんが、左下の図で、田代岳が形成された様子が判ります。
要約すると、形成過程が3つのステージに分かれてます。

ステージⅠ 水中で火山活動開始→湖成層堆積→湖水減少
ステージⅡ 主要山体形成期
ステージⅢ 中央火口溶岩噴出→マンタ平側噴火→田代岳溶岩円頂丘→赤倉爆裂
                       ↓         ↓
                       溶岩円頂丘崩壊  硫気活動
         ↓           
                       北部岩屑流

当時(60万年前以降)田代岳の辺りは、湖だったようです。
関係ないのかも知れませんが、
田代岳から南西に25キロ程離れた北秋田市・前山地区を通る国道7号の旧前山トンネル付近に、二枚貝の化石が沢山含まれた層が有ります。
田代も湖底だったとしても不思議では有りません・・・

この論文には、地図が無いので、ステージⅢを時系列で想像するに・・・

中央火口溶岩噴出・・・中央火口とは、現在の高層湿原がその場所ではないのか?
                                爆発ではないので、現在の地形図に崩壊記号がない・・
           火口壁の侵食で、土砂が火口を埋め現在の湿原が出来た・・

マンタ平側噴火・・・・九合目湿原の東側に、ほぼ円形の崩壊地形が地形図に有り。
           この崩壊場所が噴火口跡と思われる。

溶岩円頂丘・・・・・・現在の山頂ドームを指す。
           しかし、地形図では北部に崩壊を示すものは無い・・・

赤倉爆裂・硫気活動・・赤倉沢上部に、やや丸い崩壊跡が有り、これが爆裂跡。
                                硫気活動で硫黄が溜まり、後に赤倉鉱山として採掘された。
            
       
田代岳について、暇暇に調べた資料を、一纏めにしました。
60万年前の誕生から、昭和40年代の様子、中々面白い歴史?の山と思いました。
役場の石川氏の田代岳紹介文の中に、白髭大神の記載も有りましたが、
省略いたします。











冬期田代岳の新ルート模索中です。

冬期の田代岳へのルートは、一般的に黄色青色のルートが使われてます。

黄色ルート 大広手からロケット実験場への道路を進み、
      金堀沢の標識が付いたカーブミラーの処から尾根に取り付きます。
      尾根筋を登って往くと右手に実験場が望まれます。
      左手の杉林が終わった地点から、約90度進路を南に取ると、
      ブナ林の広い尾根が続きます。
      高層湿原手前からは、岳樺の植生に変り、
      湿原に出ると山頂ドームが目に入ります。
      このルートは林の中を進むので、湿原に出るまでは風の影響なし。

青色ルート 大広手から左に見える杉林を抜け、尾根に出ます。
      忠実に尾根を登ると、湿原に出ます。
      スキーでの降りは、最後の杉林を避け、尾根筋を滑り込むと、
      道路に出れますが背丈程の落差の雪壁有り。

緑色ルート 大広手から沢筋を登り、杉林を抜けるとブナ林に変ります。
(直登ルート)左右共に視界が効かず、急斜面をジグ切って登ります。
      中間地点の750~900mの間は、
      スキーの場合、斜度も有り浮遊感の味わえるルート。
                  樹林の密度が濃く、日差しが当らないので、常に新雪が味わえます。
      シューやカンジキでは、雪が深過ぎてお勧め出来ません。      
イメージ 1

模索中のルートは

赤色ルート 高層湿原から東に伸びるヤセ尾根が、青色ルートから見えます。
      ここを冬期に登り降りした、と言う話は聞いた事が有りません・・・
      地図上には、崩壊マークが記されてますが・・・
      スキーで通過出来るのか?
      900m付近から下は、スキー登行・滑走が可能のようです。
      
冬期の課題に・・・と、思ってます。
選択肢としては、①隣の青色ルートから登り、
         板を背負って900m地点迄降り、滑り込む。
        ②626mピークの右から取り付き、
         900m付近まではシール登行、板をデポして、
         カンジキを使い高層湿原を目指す。

②が、正統派の様な気がしますが、冬までの間 じっくり考えたいと思います。



      

      

6月1日から発掘作業開始。

私が担当した区画の中から、平安時代の住居跡が3軒出土。
表面の黒土約30cm~40cmを削って行くと、住居跡が現れます。
イメージ 1

もう1軒
イメージ 2

3軒が並んで建ってます。
イメージ 3

他の区画の住居跡、発掘調査範囲に跨って発見されました。
イメージ 4

丸い柱を建てた跡が数箇所と、奥に住居跡。
イメージ 5

カマド跡も発見されました。褐色の灰が堆積してます・・・
イメージ 6

黒土を削って行くと、土師器が現れました・・・
この土間が当時の床面。
イメージ 7

イメージ 8

ラーメン丼より一回り小さい器
イメージ 9

手ロクロで土師器を作ったことが判ります。
器の底には指の跡、ロクロから切り離すのに、糸を使った跡が残ってます。
イメージ 13

イメージ 10

割れてない完全品、手ロクロ跡がハッキリと・・・
イメージ 11

カマド跡、灰が堆積してます
イメージ 12

このあと、床面の柱跡を探す為に更に堀進みます。
同時に、灰の断面を調べます・・・・


6月7日、鳥海山 矢島口の祓川から、夏スキー登山をして来ました。
前日の土曜日、3時に家を出発。
山まで4時間もの運転は疲れるし、時間は有り余ってるので、遠距離は前日発。
夜のローソク点てた一人宴会も魅力かも・・

祓川に着いて、残照の鳥海を撮ろうとしたら、デジカメの電池切れ・・・
そろそろと思い、途中のコンビニで買う積もりが忘れました(>_<)
なので、今回は画像なしです・・・・

駐車場は、5月の人気は無く、ガラガラですでした・・・
雪の状況を、T氏に伝えると明日来るとのこと。
今日登ったであろう方は、帰ってしまい状況を聴けず・・・
眺めて見た感じでは、舎利下・氷の薬師からの左上ルート・七ッ釜小屋付近は、
雪が切れてます。
5月24日の時には、何とか繋がってたので当然ですが、
雪解けが進んでます・・・

翌朝、T氏と9時出発。
吸血ブヨ対策は、来る途中のドラッグストアで聞くと、
子供用で服に張る虫除けシールが使い勝手が良いとの事で、24枚入り338円。

右・アース製薬 虫よけパッチ 
左・富山 五洲薬品 水分、電解質補給水 脱水に寄る、攣り、痙攣予防。
イメージ 1
手袋はしてるので、首の後ろと顎下の襟に各一枚を張りました・・・
雪渓上に出ると、ブヨが寄って来ましたが、目の前50cm辺りを飛ぶだけで、
刺される事なしでした。
絶大な効果です、スプレーや線香やネットも過去試しましたが、
孫が夏に張ってた クマのプーさんシール が、こんなに効くとは・・・

板を背負って神社裏の急斜面の雪渓を登り、夏道伝いに賽の河原へ。
兼用靴では、雪渓も階段状の夏道も歩き難いし、板が枝に引っ掛かり仰け反る。

賽の河原からは、シール登行・・・T氏のスピードに引張られ、
七ッ釜小屋まで1時間、雪が切れてましたが小屋上の斜面5mを板のまま突破。
薄いガスが流れ、日が陰ると気持ちが良いが、カンカン照りに辟易・・・
T氏に先行する様伝え、マイペースで・・・

氷の薬師の岩下で、ザックを降ろして休憩。
OS-1ゼリー を摂取してると、由利工業高・野球部の団体がスニーカーで(@_@;)
50人位の部員が、正対して チワ・チワ と挨拶されるのには参ったが、
若者は元気でいいなぁ~と思った・・・
「野球部が何で山へ?」 と聞くと、「訓練です」との返事。
今と秋に毎年恒例だとか・・・
「メッチャ面白レー」とか「練習よりキッェー」等ワイワイ・ガヤガヤである。
この辺りの高校の校歌には、霊峰・鳥海とか秀峰・鳥海で謳われてるはず・・・

一団が通過して、舎利坂下に向かう登山道は、雪が切れ板を背負わねば・・・
時間は11時半、早朝登った方が降りて来る。
ロボット歩きが嫌なので、山頂は中止にし、正面の沢の雪渓を詰める・・・
ここだけ縦溝が無く、幅15mほどの急斜面です。
100mほど登ると3 mの小滝にが現れ行き止まり、
滝の上にも七高尾根(康新道)方向に雪渓が続いていて、
早い時期ならダイレクトに滑れるかも・・・

3回滑って、T氏の帰りを待つ間に昼飯、雲が沸いては消え、まるで夏山風情。
T氏も板を曳き登り滑走、いい処を見つけた・・・

帰りは、登ったルートを辿る、縦溝ガタガタで跳ねながら滑ってる感じ・・・
膝で調子を取るので太腿パンパン、疲れ果てて祓川へ。

これで今季のスキー登山が終わりました・・・
11月中旬、八幡平ブナ森スキー場に降雪が有るまで・・・

春スキー登山の総括として
一番いい時期のGWに、滑走面に付着するブナ花粉が大量に飛び、
よく往く各山々で悲惨な目に合いました。
20年に一度の大量飛散、と言う話も有るくらいでした・・・
秋にブナの実が豊作で、熊が増えるのが心配です・・・







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