11月10日
先日、4年前に96歳で他界した、母の部屋の押入れを整理してたら、こんな“物”が・・・
サーベル式軍刀である。爺様の残したものに違いない・・・
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爺様は、明治生まれの職業軍人だったと聞いていた。小生が生まれる前に他界。
階級は中佐で、秋田駅前に有った連隊から、兵隊が馬を引いて家に来て、
其れに乗って出退勤してたと言う。この程度の話より聞かされて無かった・・・

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鞘は錆びてた。渋いので呉5-56を吹き、抜くと・・・一世紀以上経過てもギラン・・・
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長さ88cm。日本刀の様に切ると言うよりは、突き刺す事を主とした造りの様だ。
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軍刀を所持出来るのは、将校や上級士官に限られて様だ・・・
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柄は銅製で、桜のマークと透かし彫りが施されている。握りは革製。
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緑青が吹いてるので、銅製に間違い無い。
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【秋田 駐屯地】で検索して見た・・・
大正9年の秋田市全図。秋田駅の表示が何故か無いが、広小路通りを挟んで、
司令部と駐屯地・練兵場が表示されている。
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ここに帝国陸軍歩兵第17連隊の司令部と駐屯地・練兵場が有ったのだ・・・
後に、手形に全て移転。戦後、秋田大学鉱山学部の敷地(球場・グランド含む)と為る。

子供の頃、駐屯地跡には、広大な敷地に仙台高裁秋田支部がポッンと建ってた記憶が有る。
千秋公園(元久保田城址)東側の司令部跡には、県立病院が建った。

処で、中佐の爺様が17連隊司令部で、何の職務をしてたか?は不明だが、
17連隊を調べて見ると・・・連隊長は、歴代大佐が務めてたと言う。
爺様は、その下なので連隊長補佐? 副連隊長?
厳格だったと言うが・・・没後に生まれたので・・・その辺は不明だ・・・
仏壇の遺影を見ると、細身の穏やかな爺様だが・・・名前の一文字は爺様と同じだ。

父親は、戦争の話をしたがらなかったが、赤紙(召集令状)が届き、満州に出兵した。
満州の冬は、寒くて大変だったと、焚火での暖は、標的に為るので禁だと
聞いた事が有る。
小学1.2年頃に、確か「何人撃った?」と言う様な事を聞いたら、飛ぶ程張り倒された・・・
父親に叩かれた記憶は、この一回だけだった・・・以後、子供心に戦争の話は自重した。
17連隊の殆どは満州から、フィリピン戦線に配置替えされたが、悲惨な結果と為った・・・
父親は、
敗戦終戦)時に満州から無傷で帰国、爺様の配慮が有ったのかも・・・

因みに婆様は、県南の豪商の長女で、秋田女子師範学校卒業と同時に爺様に嫁いだと。
当時、羽後本線がまだ開通して無く、同郷の女子と家の馬の荷車に乗り、
約45kmの砂利道を丸一日掛けて、家から寄宿舎に来たと言う。
夏の帰省時には途中、羽織袴を脱いで、海水浴をしたと言うから、飛んでた娘だったかも。
冬は羽織袴に外套を着て、当時珍しいスキーもしたと言う。その血を継いだのかも?
年中着物姿で、解き・洗い張り・縫いを、簡単にする婆様だった。
進学するまで元気だったが、山嶽部に入り、GW中の新人合宿で穂高山行中に他界した・・
「勉強に行ってるのだから、知らせるナ」の遺言で、夏休みに帰省して知る事に為る。

一振りの軍刀から、色々思い出すこの頃・・・10日から後期高齢者だ、後少し頑張ろう!
さて・・・刀剣所持の許可証が見当たらない・・・どうしよう