海彦・山彦の白秋日記

Ombigaichan 6340m ヒマラヤ襞が綺麗な双耳峰。 この頃はまだ未踏峰だったが・・・今は誰か登ったか?

2015年08月

2014年5月から、新規に解禁された峰が104座になりました。
そのリストが手に入りましたので、添付します。

従来、解禁されてた峰は、エベレスト以下326座でしたが・・・
同年5月21日付けのネパール政府発表によると、
326座中異名での重複や標高の低い峰16座を除外し、
新規に104座を解禁して登山可能な峰が414座になりました。

16座の除外リストです。
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新規に解禁された104座のリストです。
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2015年1月1日から登山料金が改定されました。
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今までは、隊の人数で料金が設定されてましたが、
今年から一人当たりの設定のようです。
国立公園への入園料は従来通りと思われます・・・
サガルマタ国立公園(エベレスト周辺)は、3930ルピー。
アンナプルナ国立公園は、2000ルピー。公園によって料金に差がある。
1ルピー=0.9~1.0円

これを見ると、厳しい冬期や雨期の料金が格安になってます。
雨期に4千m辺りまでの、高山植物見物ツァーの料金が下がるかも・・・
また、5800m未満の峰に登るのも料金が無料・許可不要とか・・・
国立公園への入園料のみの出費で済みます。

暇を見て、緯度・経度を頼りに、1/5万地形図で解禁峰を特定したいと思ってます。


追記 竹内洋岳氏が挑んだ、マランフラン峰が解禁リスト103番に載ってます。

   北米最高峰のマッキンリーが山名変更
   オバマ大統領が、デナリ(アラスカ原住民の呼称)に統一すると発表。


男性1人の遺体を発見、1人は不明 北秋田市森吉・滝つぼ転落事故(魁新報Web記事より)

 秋田県北秋田市森吉の太平湖近くの渓谷・小又峡で沢登りをしていた男性2人が滝つぼに転落した事故で北秋田署と消防が17日朝から現場付近を捜索し、午後3時ごろ、滝つぼから埼玉県三郷市、病院職員荻野寛之さん(34)の遺体を発見した。もう1人の横浜市緑区、神奈川県警警察官信太(しんた)正樹さん(35)は見つからず、18日も捜索する。

 捜索は16日夕と、17日朝から日没にかけ、約30人態勢で実施。滝つぼは増水して渦を巻いて危険だったため、潜水による捜索はできなかった。このため棒で滝つぼの中を探るなどした。荻野さんの遺体は県警ヘリなどで北秋田署に運ばれた。

 同署によると、2人は16日午前9時半ごろ、他の仲間2人と計4人で太平湖グリーンハウスから遊覧船に乗って対岸の小又峡に入山。尾根筋の縦走ルートを歩いて上流に向かい、遊覧船の降り場から約2キロ進んだ地点でルートを外れて沢に降りたとみられる。

 4人は「三階滝(さんかいのたき)」の上流約50メートルの地点にある滝(落差約3メートル)で沢登りをしていたが、荻野さんが午後0時半ごろ、滝の中腹で足を滑らせて約2メートル下の滝つぼに転落。荻野さんを助けようとした信太さんが滝つぼに飛び込んだとみられる。2人ともザイルや命綱は着けていなかった。


ニュース画像で見ましたが、あの水量で入渓したとは・・・
盆休み最後の日曜日、遠征組の彼等にとっては、
一日減水を待つ余裕が無かったのでしょう・・・・

同日、源流部の桃洞沢→うさぎ滝をトレースした方の画像を見たが、
格段水量が多いと思えなかった・・・
沢の上部と下部では、斯くも水量が違うものか・・・

事故原因 ①増水した沢に敢えて入渓。  ②ザイル持参も使用せず。
「山岳事故の8割は足元に有り」と云うがまさに、そんな事故・・・


追記 19日正午過ぎに、同滝壷から信太さんが発見されました。


今回の事故以降、森吉山ネイチャー協会のHPには、下記の記載が追加されました。

小又峡の沢登りについて
<必読事項>
●三階滝から上流部最後の親滝までの沢登りは困難を極めます。
 落差15m前後の滝と甌穴が連続し延長20~100mの深渕でつながっています。
●渓床は歩行が困難かつ岩盤には適所にクラック(割れ目・裂け目)がないため
 ハーケンやカムの使用は殆んど不可能です。
●したがって、連続する滝を登るには泳ぎに加え渓谷の両サイドの灌木帯の
 急斜面を高巻きしたり、比高100m前後の尾根筋や縦走路までを何度も迂回
 することを余儀なくされます。
●一番怖いのは渦が荒くれ、沸騰状態になっている滝つぼや甌穴に落ちると
 浮力を失い溺れることになります。(2015.8.16の遭難事故はこの状態に近かった
 のではないかと推察されます)
●さらに、滝の頭部に隠れている甌穴に全水量が入り込んでいる個所、
 滝つぼや甌穴の底が抜けてトンネル状になっている個所が随所に存在する
 ことを肝に銘じてください。
●渓谷を踏破すならば、上流部から順番にビレイポイントを構築して降下する
 より方法はないと考えます。勿論、ライフジャケットの着用、相互の安全確保、
 登攀遡行技術の練度が前提である。
●したがって、小又狭の沢登りは推奨できません。
 <沢遊びや遡行は、桃同・赤水渓谷とその周回ルートを推奨します>

   

資金稼ぎ④ の続きで、
十和田湖の八郎太郎・田沢湖の辰子姫伝説を紹介します。


発掘作業中に、黒土の間に白くシャリシャリする、
十和田火山灰の層が有りました。
平安時代の延喜15年・西暦915年に噴火した時の火山灰です。
これは史書にも記載が有り、大噴火だったようです。
更に発掘が進むと、黒土の下に水分を含み粘土化した火山灰層が・・・
1m~2mも堆積してました。
その層には、火砕流か爆風でなぎ倒された丸太が多数埋没してました。
興味が有ったので少し調べて見ると、
十和田湖は過去3回の大噴火で出来たカルデラ湖でした。
最初の噴火は、1万5千年前 現在の湖面全体で外輪山が形成されました。
2度目の噴火は、5400年前 現在 中の湖 と呼ばれている湾です。
3度目の噴火は、915年前 御倉半島の先端の御倉山溶岩ドーム形成。

粘土化した火山灰は、最初の噴火で降った火山灰。
黒土に含まれる火山灰は、3度目(平安時代)の噴火で降った火山灰です。

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では、十和田湖に纏わる伝説を紹介します。

【八郎太郎伝説】
平成10年 鹿角地方部発行 鹿角の伝説 より抜粋

龍となる
今から何千年も前の昔のことである。草木村(現鹿角市大湯草木)の保田というところ
に、八郎太郎という名の17歳の若者が住んでいた。八郎太郎は体が大きく、身長が6尺
(1.8メートル)もある力の強い若者であった。
 
八郎太郎は、マダの木の皮(蓑などの材料として使う皮)を剥いで集めたり鳥や獣を捕
り、それらを売って両親を養っており、村でも評判の良い若者であった。
 
ある日のこと、八郎太郎がマタギ仲間の三治と喜藤と一緒に三人で遠くの山に、泊まり
がけでマダの皮剥ぎに出掛けていたときのことである。八郎太郎が炊事当番の時、水汲み
のため川に出掛けると、川の中に岩魚が三匹泳いでいた。八郎太郎は、その岩魚を三匹捕 まえ、三人で一匹づつ分けて食べようと串に刺して焼いていた。

そのうちに、こんがり焼 けた美味そうなにおいに耐えきれず、仲間が戻ってくる前に魚を一口食べてみた。そのあ まりのうまさに、「なんと、美味しいんだろう。おら、今までこんにうまいものを食っ たことがないや。」と独り言を言いながら、知らず知らずのうちに一匹全部、そして残り の二匹も食べてしまった。

間もなく八郎太郎は焼けるような喉の渇きを覚え、そばに置い てあった桶の中の水を一口飲んだ。しかし渇きは止まらず、全部飲み干してしまった。
れでも、ますます喉は渇くばかりであり、ついには川の流れに顔を付けて川の水を飲みは
じめた。そして、飲みに飲んで日の暮れるまで休まずに飲み続けた、ふっと顔を上げたとき、八郎太郎は流れの水面に映った自分の姿を見てびっくりしてしまった。そこに映って
いるのは、大きな火の玉のような真っ赤な目をした龍であった。八郎太郎は、いつの間に
か龍になってしまったのである。
 
山から戻ってきた三治と喜藤もこの有り様をみてびっくりし、「八郎太郎、お前どうな
ったんだ。ここはひとまず小屋へもどろう。」と八郎太郎を小屋へ連れていこうとしたが、
八郎太郎は、「俺は化け物になってしまった。俺は、もう水から離れられない体になって
しまったのでどこへも行けない。ここに湖を築き、この湖の主として住むことにする。親
にはよろしく伝えてくれ。」と言うだけであった。
二人の仲間もどうすることもできなく、仕方なく八郎太郎に別れを告げて草木の村に帰
って行った。
こうして、大きな龍になった八郎太郎は、10方の沢から流れる水をせき止め十和田湖を
築き、深い湖の底に住む主となった。

南祖坊との戦い
千年以上も昔、南祖坊と言うお坊さんがいた。南祖坊は「弥勒(みろく)の出世」(悩
めるたくさんの人々を救う仏様が現れること)を願い、紀州の熊野山にこもって願掛けを
していた。その願掛け最後の夜、お堂の中で思わずトロトロと眠っていたとき、夢枕に白
髪の老人が立ち、「お前の願いをかなえてやろう。だが、その前にお前は竜にならねばな
らない。ここに鉄のわらじと杖を置くから、杖の教える通りに歩きこの鉄のわらじと同じ
ものを探しなさい。そこの場所がお前の願いをかなえる場所である。」と言って消えた。
 
喜んだ南祖坊は、さっそく日本全国の山や湖を巡り歩き、一番最後にやってきた場所は
神々しく美しい眺めの十和田湖であった。ふっと見ると、そばの洞窟の中に鉄のわらじが
置かれていた。「ああ、神様が知らせてくださった場所はここであったか。これから、私
はここに住むことにしよう。」と言って、湖の岸の上で、お経を読み始めた。その時、湖
の底から「おい、こらあ。おまえは、つまらん人間のくせに、このような尊い場所へ来る
んじゃない。さっさと立ち去るんだ。」と天地に響くような大きな声がした
南祖坊は、「お前は何者だ。ここは私が住む場所だ。私は神様のお告げで、この湖の主
になることになったのだ。」と静かな声で言った。
「なんだと。ここは何千年も前から俺が住んでいるのだ。立ち去らないとお前を飲み込
んでしまうぞ。」その大声と同時に、天地が震え、大波の荒れる湖の上に八つの頭をもっ
た大きな龍が浮かび上がってきた。そして、16本の角をふり立て、口から火を吹き舌を巻
き上げて、南祖坊に飛びかかってきた。
 
南祖坊は静かにお経をとなえ、八郎太郎めがけてお経を投げつけると、お経の一字、一
字が剣となり八郎太郎の龍の体につきささった。さらに南祖坊がお経を衣の襟に刺すと、
南祖坊も九つの頭をもつ龍に化け、八郎太郎の竜に向かって戦いを挑んだ。また、一方の
八郎太郎は自分の着ていたケラの毛1本、1本を小さい龍に変身させ、南祖坊へ噛み付か
せた。
 
こうして、お互いの命をかけた激しい戦いは七日七晩も続いたが、さすがの八郎太郎も
最後には南祖坊の法力に負けて、真っ赤な血を流しながら、十和田湖の御倉半島をはい上
がって、どこへともなく逃げて行ってしまった。御倉半島の五色岩、千丈幕、赤根岩の色
が赤いのは、八郎太郎の流した血の跡と伝えられている。

平安時代の3度目の噴火の様を、八郎太郎と南祖坊の戦いに見立てて、
この伝説が生まれたのではないでしょうか?

この画像が、龍と化した八朗太郎が流した血の跡と言われてます。
2度目の噴火で出来た 中の湖 の火口壁に堆積した噴出物です。
鉄分が多いので今でも赤褐色なのか???
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八郎太郎と南祖坊の激しい戦いで湖面から溢れた水が、
奥入瀬渓谷を造ったとも伝えられています。

八郎太郎が逃げて居なくなると、間もなく十和田湖はもとのように静かになり、南祖坊
は深い中の湖の底に潜んで、湖の主となった。
 
鹿角の神々との争い
南祖坊との戦いに敗れた八郎太郎は、やがて生まれ故郷の鹿角に帰って来た。青垣をめ
ぐらしたような山々の高い場所に登り、鹿角中を眺めわたすと、西の遠方に、米代川、小
坂川、大湯川の三つの川の合流地点に狭い谷あいの場所を見つけた。

ここは、今でも山と山の狭間で、大量の火山灰泥流が堆積し、
ダム湖が出来た場所かも・・


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図中のピンク色堆積物が毛馬内火砕流の元と言われてます。
火災流は大湯川沿いに降り、土石流となって米代川に流れ込んだようです。
この土石流の流れ降る様子を、龍になった八郎太郎に見立てたものではないでしょうか?


この場所は、右に男 神(イザナギの命)、左に女神(イザナミの命)を祭っている場所であり、それぞれ木製 のご神体が岩穴の中に祀られているという場所である。八郎太郎は早速、米代川をせき止 めて自分の住む湖を作るため、男神と女神の間に近くの茂谷山(もやさん)を背負ってき て埋めようと考えた。


そして、鹿角じゅうの葡萄のつると藤のつるを集め、きな綱を編 み、茂谷山を背負うために綱を山へ掛けた そのことに気づいた鹿角の42人の神様たちは、ここを八郎太郎によって湖にされると自 分たちの住む場所がなくなると心配し、皆が集まり相談した。

この神様たちが集まって協 議した場所が、現在の集宮(あつみや)の地名となっている場所と言われている。神様た ちは、八郎太郎を追い出すことに決め、石ころを投げて八郎太郎と争った。今でも、毛馬 内の陣場のあたりには大きな石や小さな石が多くあり、これらの石は、「神のつぶて石」 (神様の投げた石)と言われ、八郎太郎を追い出すために神様たちが投げた石と伝えられ ている。

鹿角民話の会 資料より抜粋 
南祖坊に敗れて十和田湖を追いやられた八郎太郎は、新しい住みかを求めて米代川を下っていった。
しばらく行くと、北は籠山、南からは七座山が迫っている北秋田都と山本郡の境あたりへやってきた。そこはとても景色のよい所で八郎太郎は大そう気に入り、川の一部をせきとめて一大湖水をつくり、そこを第二の安住の地にしようとした。
ところが困ったのは七座の神々であった。何とかしてほかの地へ追いやろうとして神々が集まって相談したが、なかなかよい案はうかんでこなかった。そこで、いちばん信望のあつい七座の天神様に一切を任せることにした。
七座の天神様は八郎太郎を呼んで、力くらべをしようと持ちかけて、近くにあった大きな石の投げ比べをした。見事に勝った天神様は弱気になった八郎太郎に、下流にも広々とした住みかがあり、一夜にして大湖水にしてやると勧めた。そして早速、千匹の白ねずみを集めて、八郎太郎の住む湖の土手土手に穴をあけさせた。
この話を知った下流のねこたちは驚いて、白ねずみたちに襲いかかり、三日三晩、死にものぐるいの戦いが続いた。それを見かねた神々は、ねこたちを説得して、ようやくねずみたちは堤に穴をあけることができた。
果たせるかな、ねずみたちがあけた穴からは次々に水が流れ出し、それが大洪水となって、八郎太郎はこの流れにのせられて米代川を下っていったのである。

七座山の画像です。左が上流・米代川が大きく湾曲して流れてます。
ここにも土石流が堆積しダム化したのでしょう。
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ウィキぺディアより抜粋
 江戸時代のこの地区の古文書に次のような記載が「大同2年潟の八郎という異人が七倉山の所で米代川をせき止め、鷹巣盆地は三年にわたって水底となった」(文化十四年丑六月洪水記録」より)

この伝説は、実際に起きた自然災害との関わりが指摘されている。915年十和田湖にあった火山は2000年来最大とも言われる大噴火を起こす。この噴火によってもたらされた噴火降下物は各地で堆積し、自然のダムを造った。ダムは周囲を水浸しにしながらも最終的に決壊し、各地で大洪水を起こす。秋田県北秋田市の胡桃舘遺跡もこの時の洪水によって地下に埋まった遺跡である。そして、まさにこの被害を受けた地区に八郎太郎の伝説が残っているのである。
たとえば、南祖坊と八郎太郎の七日七晩の戦いは、稲妻を投げ合ったり、法力を駆使したりの壮絶なものであるとする表現があるが、これが十和田湖火山の噴火の様子を記述しているという人もいる。また、七座山の伝説に残っている「白鼠」は火山降下物が堆積し流れ下るシラス洪水なのではないかと指摘されている。
このことは、1966年に平山次郎・市川賢一によって「1000年前のシラス洪水」という論文で発表されている。

米代川を降った八郎太郎は、
男鹿半島の砂洲で出来た大きな潟を安住の地と決め、主となった。
これが後に八郎潟と呼ばれた由縁です。

次に辰子姫伝説】です。
 語り・高橋茂子(あきた民話の会・美郷町在住)
 
 昔々、院内の神成沢に三之丞と言う家があって、辰子って言う娘と阿母ど暮らしてえだけど。辰子は、まんじ綺麗な娘っ子で親切だったがら、辰っ子ど好がれでえだけど。
 ある日、水鏡さ自分の姿映して「老えだぐね。今だばみんなに綺麗だど言われるども、四十年位経てば阿母みでに白髪になったり、腰まがったりするべな」と思って、観音様に願掛けようど決めたどよ。背中さ平らな石背負って、百段目に辰っ子は疲れて観音堂の前で居眠りしたば、夢枕さ観音様現れで「辰子、お前の願いは人間として叶う事ではないぞ」。「人間でなくてもえんし、若ければ」。「そうか、それ程言うならかなえてやる。北の方に清い泉があるがら、その水飲めば若くなっていられるぞ」と告げて消えてしまったけど。
 春になって薬師峠の北の方さ友達と山菜とりに行ったど。いっぺとったば、観音様のお告げの泉があったけど。その水いっぺ飲んだば、手足が伸びで見るも恐ろしい龍の姿になったげどよ。「あーっ」と叫んだとたんに雷雨が滝の様に降ってきて、辰子は泥水の中に引き込まれだけど。それ見だ友達がアバさ知らせに行ったば、気が狂ったようになって村のオド達さ助けをたのんだど。
 囲炉裏にあった燃えさしを灯りとして辰子を探しに行ったば、今まで見たこともね大きな湖が出来てえだっけど。アバとオド達は夢中になって叫んだば、水面が波立って恐しい龍が現れだけどよ。「お前辰子でねで。早く辰子どご出して」。したばきれいな辰子が出てきて、「アバ、オド達ごめんな、さわがせで。いつまでも若ぐなっていでして観音様さ願掛けて、この姿になったなだ。そのかわり、水屋さ魚おくるから」と言って、湖の中に沈んでしまったど。
 
囲炉裏の燃えさしを明かりに、辰子を探しに行って龍が現れて驚き、
燃えさしを湖面に落すと、それに尾鰭が生え国鱒になったと・・・
以後ジジとババは国鱒を採って生計を立てた。
と言う言い伝えも有ります。

 語り・尾形雅子(あきた民話の会・横手市在住)
 
 山の雪も解けて、里にカタクリの花が咲く頃になると、田沢湖に渡って来たカモ達も、北の八郎潟に帰って行った。田沢湖の主・辰子姫は冬の間、カモ達から、いろいろな話を聴くのを楽しみにしていた。その話の中で、人間から龍になってしまった八郎太郎の話を聴いた。辰子は自分と同じ身の上の八郎太郎に逢ってみたいと思うようになった。
 春になって、八郎潟に帰ったカモ達は、早速太郎に辰子の気持ちを伝えた。八郎は喜んで、冬になったら田沢湖に行ってみようと思った。
 あられが降る頃、辰子はカモ達からの知らせで胸をときめかしながら八郎を待っていた。田沢湖に着いた八郎太郎は「なんと田沢湖は水がきれいだし、山の姿もすばらしい。それより辰子姫はもっと美しい。ここで一緒に暮らせたらありがたい」と言う。辰子はうれしかった。こうして八郎は冬の間、仲良く暮らし、春には八郎潟に帰った。
 ところがある年、辰子に恋していた十和田湖の主・南祖坊は、二人の仲を裂こうと攻めてきた。しかし、辰子を必死で守る八郎太郎の気迫に負け逃げて行った。
 それから毎年八郎潟が荒れる頃になると、秋田から河辺、仙北の宿屋に立派な身なりの旅人が泊まっていくようになった。この旅人は、西木村西明寺の、ある宿屋に旧暦の十一月に決まって泊まるという。宿屋の人には「部屋を絶対に覗かないように」とたのんだ。
 ある年、宿屋の老婆が夜中に覗いてしまった。部屋には大蛇が、とぐろを巻いて寝ていた。怒った旅人は二度と泊まりに来なかった。その宿屋はある年、大洪水で宿屋もろとも老婆も流されてしまった。旅人は八郎太郎であった。
 今でも辰子は冬になると、八郎潟から逢いに来る八郎太郎を待ちこがれているという。
 田沢湖は二人の愛の熱で凍ることはなく、二人の愛の深さで年々深くなり、日本一になったということである。

なので冬、八郎太郎が留守にする八郎潟が凍結すると云う伝えも有るが、
水深が5~10mより無く当然凍結するし、
一方の田沢湖は水深が423mも有り当然不凍湖な訳です。
何か興醒めですか・・・



田沢湖畔に佇む 辰子像
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十和田湖の八郎太郎伝説・田沢湖の辰子姫伝説、いかがでしたか?


 

発掘調査の土方バイトも、早いもので2ヶ月経過・・・
連日の暑さ(熱さ)に、溶けそうに為りながらも、
風呂上りのビール目当てで頑張ってます~~

今日、ディナフィット・テストセンターから連絡が・・・
2014-15モデルのデモ用を払い下げるとの事。
PDG板とTLTスピードターンを申し込んでいました・・・
以前から欲しいと思ってた、山スキー板と金具です。
PDG板 9万+スピードターン3.8万で12.8万(本体価格)もするのです・・・
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高価で手を出せずに居ましたが・・・
連絡では、
PDG板に専用シールを付け税込み5万、TLT金具は2.5万、
数量限定なのでお早めに返答を・・・との事。
15万9840円を7.5万で買えるのです。
悩んでしまいます・・手持ちの板+金具の最軽量は片足で1750g、
これだと1139gこの軽さは魅力です・・・遠征資金転用か????
早々に返答しなくては。。。。


さて・・
発掘現場で、1万6千年前の火山灰層に、
火山の爆風か?火砕流?で倒された木が多数発見された事は、以前に述べました。

この木が倒れてる方向から、田代岳か八幡平焼山の火砕流と、
思ってましたが結論が・・・

火山灰の年代測定から、1万6千年前の物と言うのは判明してたそうです。
問題は何処から来た火山灰か?
灰の分析から、十和田湖カルデラの大爆発で周辺に降り注いだ物とほぼ同一とか。
八戸辺りにも堆積してるとか・・・
発掘現場から十和田湖までは直線距離で40キロ、
地形にもよるのでしょうが、発掘現場には1mから2mの厚さで堆積してます。

それと、十和田湖の大爆発で 毛馬内火砕流 と呼ばれている大火砕流が発生し、
大湯川・米代川沿いに流れたことが判りました。
この大火砕流を、龍 に置き換えて見ると・・・

・・・・・・・・・・
十和田湖には、八郎太郎伝説が
田沢湖には、辰子姫伝説が
どちらも噴火によるカルデラ湖。
噴火の様を、暴れる龍に喩えたものではないでしょうか
次には、この伝説を紹介しましょう
・・・・・・・・・・

このマーブル模様は、火山灰に含まれた軽石が、
長期に亘り水分を含んで劣化した物とか・・・
大きい物は直径10センチも有ります・・・
ザラザラの軽石だったのが、今は粘土状になり辛うじて形を残してます。
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火災流か爆風による、倒木痕。 電柱ほどの太さです。
木の表面が焼けた跡が判ります・・・
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木質が腐って黒土になってますが、中に焼けて炭化した炭が有りました。
炭を分析すると、何の木か判るそうで、当時の植生や気温も判るそう・・・
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焼けた跡がはっきりと・・・
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長い木は8mも有ります・・・直線なので針葉樹か?
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