6月4日

この土日、雪の状態が良さそうなら、最後の鳥海山・夏スキーを予定してました・・
金曜日のライブカメラを見ると、季節外れの-25℃の寒気の影響で、
8合目から上の〝島・岩稜〟が白く雪を冠ってました。
処が当地は昼過ぎから雷雨が・・・往く気が削がれた感じ・・・で、中止に。


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ここ何日か、〔チョモランマ単独行〕を引張り出して、再読してます。
1980年に、ラインホルト・メスナーが、チベット側から新ルートで、
無酸素・単独初登頂した時の著書で、1985年に和訳出版された登頂記です。


デス・ゾーン(死の地帯)と言われる、8千mを越える高所に、2晩ビバークしての快挙。
実に約30年振りの再読・・・定価2200円ですから当時としては高い本・・・
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メスナーは、8千m峰14座(単独2座)全てを、
無酸素登頂した世界初の最強登山家ですが、彼の言動が好きになれず、
この本は一回読んだきりにしてたと思う・・・
学生時代に、H・ブール、W・ボナッティ、G・レビュファに心酔してましたから。


再読の切っ掛けは、栗城がこの秋に、
メスナールートに2度目の挑戦をするとの話から・・・確か本が有ったなぁ~と。
引張り出した次第、若干古書独特の匂いがするものの付箋も当時のままに。


面白いのはメスナーが、3歳年下の植村直己をとても意識してた点です。
著書の中で、この様に言ってます。(好きになれない言い方が随所に・・・)
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この時に植村は、81年にノーマルルート(南東稜)からの登頂を試みるも、
サウスコルの上で敗退。

メスナーは、ネパール側の許可が取れず、中国側からの許可で北面へ転進。
(この頃は同一ルートに、登山隊は一隊と云うルールが有った為)


〔メスナーの行動概要〕

6月下旬  ラサから4駆で、5100mのBCに到着。
      この間、近郊をトレッキングして高度順応をする。

7月13日 ヤク3頭で、10キロ先にある6500mのABCに荷上げ開始。
      (ヤク使い2人とメスナー、彼女の4人。ポーター・シェルパは無し)

7月14日 6000m地点に中間キャンプ設置。BCより6Kmの地点

7月15日 6500mにABC設置。一ヶ月分の食料・燃料荷上げ完了。
      この間、BCに降り天候待ちと高度順応、周辺への小旅行実施。
                   BC入りしてから、合計約7週間の高度順応期間を取っている。
    
8月16日 BCからABCへ移動。
      約10Kmの緩い登り。彼女は以後ABCに待機、中国側連絡員はBCに待機。
  
8月17日 ABCから7000mのノース・コル直下に18キロザックをデポ。
      ザックには、7日分の食料・燃料・軽テント・寝袋・マット・カメラ等。                      
      標高差500m・最大斜度45度の雪壁を、2時間で登り、30分で下山。

8月18日 ABCから45度の雪壁を登りノース・コルへ。9時・7360m地点、
      3時・7800m地点でビバーク。

8月19日 北稜ルートの計画を、雪の安定したクーロワールルートへ変更して、
      幅2キロの大斜面をトラバースし、クーロワールへ200m手前の、
      8220m地点でビバーク。

8月20日 ピッケル・カメラのみ携行、他はデポ。8時出発、3時登頂、4時下山
      開始。日没後ビバーク地点に戻る。

8月21日 ストック・ピッケル・ザックのみでABCへ。他の軽テント・寝袋他は、
      全て放棄して下山。
      高所で体力を消耗した為か、ノース・コルからの降りで、2度滑落。

8月22日 ABCで体力消耗のため、動けず停滞。

8月23日 BCへの10キロの道を、彼女と一日掛かりで歩く。


◎充分な高度順応と天候の読みで、
 一度のアタックで未踏のルートを登攀してしまう意思・体力は凄いです。
 が・・・必要の無い装備他を棄てて下山とは、メスナーらしい遣り方。
 ネパール側エベレストBCの、ゴミの量を非難してた者とは思えない行為・・・・

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エベレスト北面
北稜ルート(青線)の一般的なキャンプ位置と標高、難所のステップⅠ・Ⅱ
赤線はメスナーが登攀したルートと、白◯はビバーク位置。


◆2回の高度順応期間(約7週間)を経て、5100mのBC周辺を、
 普通に走って歩けたと書いてます。
 考えられない事ですが、8千m峰14座を無酸素で完登したメスナーは超人です。

◆北稜最大の難所は、6500mのABCから、7000mのノース・コルに至る、
 標高差500mの内の400m(45度の急斜面)だと言っている。
 ここで、登りで一回・降りで二回滑落している。

◆当初計画は、北稜からの予定だったが、稜線上の雪が軟らかく膝深の処と、
 最中雪の処が有り、体力消耗と時間ロスを考え、
 ノートン・クーロワール(グレート・クーロワール)にコース変更。
 単独登頂としてセカンドステップの、梯子通過の是非の記述は無し。
 当時は、人工物に触れる事により、単独不成立との概念が無かったのかも・・・
 メスナーは、セカンドステップを見て、ハングした壁と述べている。


では、セカンドステップとは、どんな処でしょうか・・・


 3枚の画像は、1995年日大山岳部が北東稜から初登頂した時の画像。
 ①セカンドステップ下部 ②核心部梯子 ③セカンドステップ上部
①写ってるのは、シェルパ
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②1975年に中国隊が設置した梯子が健在です。
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③画像左の岩稜は、通過して来た北東稜。
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◆著書の中に、〝リズム〟と言う言葉が何度か出て来ます。
 栗城は、これを真似て言ってたのかも・・

◆使用した軽テントは、何故か?ニッピン製の所謂、ゴアの〝メスナーテント〟です
   何故、栗城がアライ製の〝ライズⅠ〟(ペラペラのナイロン生地)なのか不思議です      
 多分軽いからでしょう。
 
◆ピッケル・アイゼンは軽量のチタン製、ピッケルは1本のみ。
 チタンは、冷たさが苦に為らない不思議な金属、硬く高価で加工が大変。                                  

栗城の計画が発表になった段階で、メスナーとの比較をして見ます。