小学6年の夏休み、地区の日帰り登山行事が有り、親に隠れて申し込んだ・・・
家に案内のパンフが届きバレて、大反対されたが何とかお願いして参加。
(そのころは体も弱く、風邪など流行と長期に学校を休んでたので・・・)
ズック靴にリュック・おにぎりに水筒程度の装備。
秋田市の最高峰太平山・奥岳1171m(野田ルート)へ、田圃沿いの砂利道を歩き、
林の中の急登は、木の根っ子に捕まりながら登った・・・
森林帯を抜けると【弟子還り】の岩場、張られた鎖に捕まり登り、やがて山頂。
市内が遙か下に見え、海までも~~ この時、山の魅力に取り憑かれたのかも・・・
数日は酷い筋肉痛で、ペンギン歩きの記憶が有る。
中学に入ると、担任が体育教師(当時100mの県記録保持者)で、陸上部を担当してた。
子供心に足腰を鍛えれば、筋肉痛に為る事は無いと思ったのだろう・・・
子供心に足腰を鍛えれば、筋肉痛に為る事は無いと思ったのだろう・・・
太平山登山の話をし、足腰を強くしたいと・・・なら、長距離だなッ と。
しかし部活をするには、親の承諾が必要で、説得するのに大変だった記憶が有る。
部活は、足に自身が有る奴の集まり、虚弱体質には辛かったが・・・
しかし部活をするには、親の承諾が必要で、説得するのに大変だった記憶が有る。
部活は、足に自身が有る奴の集まり、虚弱体質には辛かったが・・・
当時、中学生の種目は1500mが最長、毎日3000mは走った・・・お陰で、体が丈夫に。
高校へ。大館鳳鳴高校の岩木山冬山遭難事故が有り、登山禁止令。
隠れて、日曜日の野田行き一番バス(6時)に乗り、無雪期に年30回は登った。
12時頃に奥岳に着いてたのが、10時頃には到着出来る体力が備わった・・・
金山口⇔前岳⇔奥岳、皿見内口⇔奥岳等々、我が庭の如くに歩ける様になる。
足腰には自信が付き、“ヒマラヤに登りたい”と思うようになって・・・
3年の夏に【森谷製作所】を訪ね、
ピッケルを造ってくれと頼むも、相手にされず・・・
「忙しいからダメ」・・・鍛冶屋が本業で鍬、鎌、斧等造っていた。
小学生の頃、第一次南極観測が始まり、
南極で使うピッケルに森谷が選ばれたのを新聞で知ってたことを話し、
大学で山登りをして、ヒマラヤに登りたい事を話した。
どうにか卒業迄に、造って貰える話がついた・・・
身長に合わせて長さを決め、穴なしを依頼。(6000円、穴空きは7000円)
炭素鋼とニッケルクローム鋼が有ったが、低温に強い高い方のN鋼で。
月1000円の小遣いを倹約して、購入資金捻出。
当時、国産のトップ・エバニュー・ホープのピッケルは、5千円以下で販売、
シャルレ・シモン等の欧州物は、地方では目にする事が無かった・・・
上京して神田の〔さかいや〕で見たが、価格は高嶺の花。
3月、ピッケル完成、【akita moriya N4458】の刻印が。
ピックからブレードのカーブが優雅、ブレードでの氷の切れ味も、
当時のウイリッシュ・シャルレ・シモン等と比べ遜色無しでした。
後に山嶽部時代に酷使したので、シャフト交換の際、全長も65cmに詰めて貰いました。
これを持って、上京したのです。
山嶽部時代のことは、次回に・・・・