海彦・山彦の白秋日記

【森吉山・樹氷原残照】 この画像には、拘りが有る。大寒スキー登山で、避難小屋泊で撮ったもの。右後方からの落日が、山頂を照らしてる。手前左の青森ドド松。 撮影前は、夕日を浴びて、後方の樹氷と同化していた。徐々に夕日が下がると・・・先端だけが輝いた瞬間を撮った。

カテゴリ: ◆◆山彦のヒマラヤ・極地・他雑談◆◆

5月26日

この春のエベレスト登頂者が、5月25日現在で14人となりました。
5月19日から23日に掛けての快挙です。
天候待ちに耐える強い心と、一気に登れる体力が欠かせません・・・
北稜ルート・南東稜ルートと半々の有酸素登頂ですが、登った者勝ちです・・・


このリストには、日本人初登頂者の松浦輝夫氏以下、
5月23日登頂の南谷真鈴(まりん・19歳)さん含み、213人の登頂日・年齢・
所属・登山ルート等が記されてます。(資料・日本大学山岳部・編)

細かくて見難いでしょうが、拡大して御覧下さい。
若干、説明をしますが・・・


登頂者No1が松浦氏(早大)となってます。
植村氏(明大)が山頂目前までトップで登ってましたが、
年長者に道を譲り、2番目に山頂を踏みました・・・これには2つの訳が有ります。
①両氏共に大学山岳部出身で、先輩に先に登頂して貰った。
②日本山岳会が、遠征隊員に個人負担金を課したが、植村氏は払えず、
 荷揚げ・ルート工作要員として参加しました。(アタック要員ではなかった・・・)
 しかし高度障害等で次々とアタック隊員が脱落し、荷揚げ等で活躍した植村氏に、
 登頂のチャンスが巡って来たのです。(明大時代から黙々と登る姿に、団栗と字)
 植村氏は、負担金を納めた他の隊員への配慮が有ったのかも知れません・・・
 のちに、松浦氏は、すばらしい仲間に恵まれ登頂出来たと言ってます。


その後は、山岳同志会・イェティ同人・カモシカ同人等の、
当時一世を風靡した社会人山岳会が活躍。

No70、野口 健(当時25歳)がいます。彼は、海外の商業登山隊に参加し、登頂。
当時、国内にはまだ商業登山を業とした組織は無く、
体力的に劣る日本人の海外商業登山隊参加は無理と、言われた頃の快挙です。

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2頁目

No123、岩崎圭一(当時32歳)
彼は、インド洋の波打ち際から、自転車と徒歩で一年掛かりでヒマラヤへ。
商業登山隊に参加し、見事に海抜0mから一発登頂。
費用は、道すがら得意の手品を見せて賄ったとか・・検索すると旅日記が見れます。

No184、渡邉玉枝(当時73歳)
彼女は、2002年に続き2回目の登頂です。現在も、女性世界最高齢登頂者、
今でも山を歩く早さは、並みの男以上とか・・・しかも、ゴミ拾いしながら・・・

No185、村口徳行(当時55歳)
日本人最多登頂者タイ 7回目の登頂

No206、倉岡裕之(現在54歳)
日本人最多登頂者タイ 7回目の登頂

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No212、田村 聡(現在50歳)
今年、3回目の挑戦で登頂、視聴覚障害者で世界初の快挙。

No213、南谷真鈴(まりん・現在19歳)
早大生、過去にアルプス・アコンカグア・マナスル・ビンソン(南極最高峰)等に登頂。南極点にも到達してる若手の女子。

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ヒラリー、テンジンが初登頂して以来、
6000人~7000人が登頂したと言われる、エベレストですが、ドラマは尽きません。
世界最高峰ゆえでしょうか????


6月4日

この土日、雪の状態が良さそうなら、最後の鳥海山・夏スキーを予定してました・・
金曜日のライブカメラを見ると、季節外れの-25℃の寒気の影響で、
8合目から上の〝島・岩稜〟が白く雪を冠ってました。
処が当地は昼過ぎから雷雨が・・・往く気が削がれた感じ・・・で、中止に。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。


ここ何日か、〔チョモランマ単独行〕を引張り出して、再読してます。
1980年に、ラインホルト・メスナーが、チベット側から新ルートで、
無酸素・単独初登頂した時の著書で、1985年に和訳出版された登頂記です。


デス・ゾーン(死の地帯)と言われる、8千mを越える高所に、2晩ビバークしての快挙。
実に約30年振りの再読・・・定価2200円ですから当時としては高い本・・・
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メスナーは、8千m峰14座(単独2座)全てを、
無酸素登頂した世界初の最強登山家ですが、彼の言動が好きになれず、
この本は一回読んだきりにしてたと思う・・・
学生時代に、H・ブール、W・ボナッティ、G・レビュファに心酔してましたから。


再読の切っ掛けは、栗城がこの秋に、
メスナールートに2度目の挑戦をするとの話から・・・確か本が有ったなぁ~と。
引張り出した次第、若干古書独特の匂いがするものの付箋も当時のままに。


面白いのはメスナーが、3歳年下の植村直己をとても意識してた点です。
著書の中で、この様に言ってます。(好きになれない言い方が随所に・・・)
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この時に植村は、81年にノーマルルート(南東稜)からの登頂を試みるも、
サウスコルの上で敗退。

メスナーは、ネパール側の許可が取れず、中国側からの許可で北面へ転進。
(この頃は同一ルートに、登山隊は一隊と云うルールが有った為)


〔メスナーの行動概要〕

6月下旬  ラサから4駆で、5100mのBCに到着。
      この間、近郊をトレッキングして高度順応をする。

7月13日 ヤク3頭で、10キロ先にある6500mのABCに荷上げ開始。
      (ヤク使い2人とメスナー、彼女の4人。ポーター・シェルパは無し)

7月14日 6000m地点に中間キャンプ設置。BCより6Kmの地点

7月15日 6500mにABC設置。一ヶ月分の食料・燃料荷上げ完了。
      この間、BCに降り天候待ちと高度順応、周辺への小旅行実施。
                   BC入りしてから、合計約7週間の高度順応期間を取っている。
    
8月16日 BCからABCへ移動。
      約10Kmの緩い登り。彼女は以後ABCに待機、中国側連絡員はBCに待機。
  
8月17日 ABCから7000mのノース・コル直下に18キロザックをデポ。
      ザックには、7日分の食料・燃料・軽テント・寝袋・マット・カメラ等。                      
      標高差500m・最大斜度45度の雪壁を、2時間で登り、30分で下山。

8月18日 ABCから45度の雪壁を登りノース・コルへ。9時・7360m地点、
      3時・7800m地点でビバーク。

8月19日 北稜ルートの計画を、雪の安定したクーロワールルートへ変更して、
      幅2キロの大斜面をトラバースし、クーロワールへ200m手前の、
      8220m地点でビバーク。

8月20日 ピッケル・カメラのみ携行、他はデポ。8時出発、3時登頂、4時下山
      開始。日没後ビバーク地点に戻る。

8月21日 ストック・ピッケル・ザックのみでABCへ。他の軽テント・寝袋他は、
      全て放棄して下山。
      高所で体力を消耗した為か、ノース・コルからの降りで、2度滑落。

8月22日 ABCで体力消耗のため、動けず停滞。

8月23日 BCへの10キロの道を、彼女と一日掛かりで歩く。


◎充分な高度順応と天候の読みで、
 一度のアタックで未踏のルートを登攀してしまう意思・体力は凄いです。
 が・・・必要の無い装備他を棄てて下山とは、メスナーらしい遣り方。
 ネパール側エベレストBCの、ゴミの量を非難してた者とは思えない行為・・・・

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エベレスト北面
北稜ルート(青線)の一般的なキャンプ位置と標高、難所のステップⅠ・Ⅱ
赤線はメスナーが登攀したルートと、白◯はビバーク位置。


◆2回の高度順応期間(約7週間)を経て、5100mのBC周辺を、
 普通に走って歩けたと書いてます。
 考えられない事ですが、8千m峰14座を無酸素で完登したメスナーは超人です。

◆北稜最大の難所は、6500mのABCから、7000mのノース・コルに至る、
 標高差500mの内の400m(45度の急斜面)だと言っている。
 ここで、登りで一回・降りで二回滑落している。

◆当初計画は、北稜からの予定だったが、稜線上の雪が軟らかく膝深の処と、
 最中雪の処が有り、体力消耗と時間ロスを考え、
 ノートン・クーロワール(グレート・クーロワール)にコース変更。
 単独登頂としてセカンドステップの、梯子通過の是非の記述は無し。
 当時は、人工物に触れる事により、単独不成立との概念が無かったのかも・・・
 メスナーは、セカンドステップを見て、ハングした壁と述べている。


では、セカンドステップとは、どんな処でしょうか・・・


 3枚の画像は、1995年日大山岳部が北東稜から初登頂した時の画像。
 ①セカンドステップ下部 ②核心部梯子 ③セカンドステップ上部
①写ってるのは、シェルパ
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②1975年に中国隊が設置した梯子が健在です。
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③画像左の岩稜は、通過して来た北東稜。
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◆著書の中に、〝リズム〟と言う言葉が何度か出て来ます。
 栗城は、これを真似て言ってたのかも・・

◆使用した軽テントは、何故か?ニッピン製の所謂、ゴアの〝メスナーテント〟です
   何故、栗城がアライ製の〝ライズⅠ〟(ペラペラのナイロン生地)なのか不思議です      
 多分軽いからでしょう。
 
◆ピッケル・アイゼンは軽量のチタン製、ピッケルは1本のみ。
 チタンは、冷たさが苦に為らない不思議な金属、硬く高価で加工が大変。                                  

栗城の計画が発表になった段階で、メスナーとの比較をして見ます。

2006年の春に、ヒマラヤ登山をした時に入手した物。

ネパールは、ヒンズー教を信仰する部族(80%)と、
チベット仏教を信仰する部族(10%)が共存してる国です。
南はインド・北はヒマラヤ山脈を挟んでチベットに接しているからです。
高い山々に囲まれてて、昔は交流も少なく、多民族・多言語国家と言われてます。
チベット仏教徒の多くは、ヒマラヤ山脈の麓に住んでます。
シェルパ族が主で、彼等の家には、この様なタンカとダライラマ師の写真が、
祭壇に飾られています。


このタンカ【仏画】は、チベット仏教の僧が修行の一環で描き、
寺院(ゴンパ)の現金収入にしてるものです。
ローソクだけの薄暗い寺院の中で、描かれたものとは思えない鮮やかさです。


拡大して御覧下さい、緻密さに驚きますよ~    目の表情がどの顔も優しいのです。
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4辺が不揃いの、厚手の布(油絵用のキャンバス地の様な物)に描かれてます。
サイズは幅約30cm・長さ約40cm。


拡大画像(上・左) 左上に山並みが描かれてます、ヒマラヤ山脈でしょうか・・・
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拡大画像(上・右) 
金線・銀線で縁取りされてて、光の具合で輝きます。
 白い三角天幕が描かれてます、モンゴル遊牧民のパオに似てます、
チベット族も、昔はこんな天幕で暮らしてたのか・・・  
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拡大画像(下・左) 
象のほか、想像上の動物達が、多数描かれてます。
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拡大画像(下・右)
火炎を纏った、餓鬼も描かれてます・・・
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額に入れて、ベット脇の壁目線の高さに飾って、寝ながら眺めてます。
信仰心は無いですが、見てると何となく落ち着きます。

2016年4月~5月に中国人14名(男女)が、
全員登頂に成功した動画がYouTubeに出てます。
ガイド付き登山ですが、BC→山頂→C1まで詳細な画像は珍しい
約1時間の動画ですが、見応えか有ります。

折りしも栗城が、この画像の北稜を挟んだ、西側の中央ロンブク氷河で、
行動してますから参考にと思い紹介します。

この隊はノーマルルートの、東ロンブク氷河からノースコル経由で登頂。
これでも一番楽なルートですから、グレートクーロワールとは比較に為りませんが。

動画の概略を説明します。

4月 6日 中国国内から、ラサに到着。
      11日の出発まで、食料等の調達をしてたと思われる
4月11日 ラサを車で出発。(この間、3600mのラサで高度順応してたと思われる)
4月13日 BC(5200m)到着。(17日まで、高度順応してたと思われる)
4月17日 BC→ABC(6450m)へ。(東ロンブク氷河沿いに10キロ先)
4月24日 プジャ。
4月26日 ABC→ノースコルC1(7000m)へ。(17日から充分な順応期間が有り)
      悪天候で、BCまで下山。
5月14日 BCから再出発→5800m(中間地点で一泊)
5月15日 ABC着。
5月16日 ABC→C1へ。(昼から標高差500mを登り夕方C1。
      途中からアイゼン・Fixザイルをユマールで確保しながら登ってます。    
5月17日 停滞か?
5月18日 C1(7000m)→C2(7700m)へ。(酸素を吸ってます、Fixベタ張り)
5月19日 C2→C3(8220m)へ。(晴れてるが強風、雪煙が舞ってます)
5月20日 C3→山頂→C1
      C3を夜中の12時に出発、8600mのセカンドステップ着が5時。
      アルミ梯子を登る様子と、各隊が残置したザイルが見られます。
      7時45分に登頂、帰路C1への下山の様子も見れます。

日程も2ヶ月近く・高度順応期間も各高度で充分に取れた事が、
全員登頂に繋がったと思うし、リーダーの手腕が素晴らしい。


では、動画をどうぞ。      


如何でしたか? これがエベレストの簡単なルートです。
ネパール側のノーマルルートも同じ様なものですが、
こんな処を、いやこれ以上の難ルートを〝単独・無酸素〟で、
登るクライマーが数多くいる事に驚きます。勿論亡くなった方も多数ですが・・・

栗城と同時期に、エベレスト北面に居た、キリアンが2016年9月28日付けの、
〝SUMMITS oF MyLIFE〟 の中で、今回の遠征登山の概要と総括をしてます。
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キリアン隊は、ジョルディ、アルプスガイドのセバスチャン、ビビアンの4名。
東ロンブク氷河のノースコル(7000m)から順応し、中央ロンブク氷河から、
ホルバインかグレートを登攀する計画。

8月7日 ネパール・カトマンズに到着
     手続き、その他
8月16日 中国・ラサに到着
8月19日 ロンブク到着(寺院の在る処、BCの手前)
8月22日 6500mABCの予定が、5キロ手前の6000mでキャンプ。
     (雪でヤクが進めなかった模様、この点は栗城と同じか・・)
8月29日 7200mのラプ・ラから7700mに登る。
     (北東稜末端の東に有る山・高度順応の為)
8月31日 最後の順応で、8000~8200mに登る予定が7600mで天候悪化の為中止。
     良い状態で55度の斜面を登れたと。
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                     (7000mノース・コルでの、キリアン)

9月8日 3時に出発して、7000mへ 天候悪化
9月11日 チャンツェ7553mの7519mからスキー滑走。
     (ノース・コルの北側の山、この山の登頂を目的にする隊も有る位の山)
9月12日 昼までに北稜を7950mまで登ったが、雪が降り始め下山。
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                   (登攀する、キリアン)
9月13日 ビビアンとチャンッエの6910mからスキー滑走。
9月15日 撤退決定。
9月20日 ラサで打ち上げ宴会。

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キリアンのメモ。22日に書かれてる90-80-85の数字は、
血中酸素飽和度の数値と思われる。
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天候が悪く7950mで撤退した、キリアンには気の毒だったが、
もう少し我慢をしてれば、今の好天で登頂の可能性が大だったのでは・・・・

9月12日に、晴れ間を見て6000mから7950mを日帰りとは、恐ろしい速さです。
流石、速攻のキリアンだと・・・
それに引換え、5600m(ABC)~6100m(C2)を、ウロウロしてる栗城は駄目ですね。


さて、今晩の栗城ブログ更新を楽しみに・・・・

それと、当ブログにキリアンは東ロンブクなので、
栗城とは遭遇してないのでは? との、コメントを戴きました。
キリアンのHPには、順応後に中央ロンブクに移動したとの記載も無く、
どのルートの7950mまで登ったのかも記載無しです。(北稜ルートとは思うが・・)
もしかしたら、最後まで東ロンブクに居たのかも知れません、済みませんでした。


追記
小生が50年前に山登りをした頃は、キリアンがメモした様な行程表を書き、
冬山に向かったものです。
形式は違っても行動記録として、外国人が同じ様なメモを残してる事に、
万感の思いをしています。

栗城には、知りえない事でしょうが、
計画と実績の差が一目瞭然に見られる表ですから、実践して欲しいメモです。
栗城はこんな事も知らないと、思ってますが・・・

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追記 翌2017年春のチベットでの無酸素登頂の記録

第1回目の登頂(5月20日~22日)

標高5100mのBCを、20日の夜10時に出発。
26時間後の22日、真夜中に登頂。午前0時15分に下山開始。
22日、正午過ぎに6500mのABCに到着。延べ38時間の行動。

第2回目の登頂(5月27日~28日)

1回目の記録に満足出来ず、2度目に挑戦です。
27日に標高6500mのABCから、17時間後の28日に登頂。
即日ABCに帰還、行動時間は延べ28時間30分

通常チベット側からの登頂は、天候に恵まれたたとして。
1日目 ABC⇨C1
2日目 C1⇨C2(酸素を吸う)
3日目 C2⇨C3
4日目 C3⇨登頂⇨C2又はC1まで戻る
5日目 ABCに帰還
初日に、C2まで登れたとしても、
往復4日の行程です。

山野井泰史氏が、ヒマラヤ・アビ北壁に挑む事を聞きました。

色々調べて見ると、
モンベル「チャレンジ支援プログラム」を受けての、遠征のようです。
以下、モンベルHPより
辺境・未踏の地へ、それぞれの夢を抱いて多くの人たちが冒険・探検の旅へと出かけていきます。モンベルはその目的達成をサポートするプログラムを提供しています。
「チャレンジ支援プログラム」は、モンベルクラブ・ファンドを原資とし、冒険・探検活動、自然保護活動、社会福祉、野外教育、地域貢献など、自然と関わりがあり、社会的貢献度の高いさまざまな取り組みを支援するプログラムです。活動に必要な装備を特別価格で提供するほか、とくに社会性が高いと認められる活動には資金・商品の提供も行います。サポートを希望される個人・団体は、下記の応募要項をご覧のうえご応募ください。

2016年からのチャレンジ支援をご紹介します。

支援団体の中に、山野井氏のチャレンジ内容が書かれてました。

団体・個人名  日本登攀クラブ(古畑隆明氏 facebook・山野井泰史氏
               遠山学氏 facebook
活動分野    冒険・探検(登山)
チャレンジ内容 ヒマラヤMt.Abi北壁(6.103m)への北壁新ルートによる登攀。




新ルートによる登攀・・・既に、北壁は誰かに登攀されているのか・・・

さて、アビ峰とは、ヒマラヤの何処に在る、どんな山???
調べて見ると、アビの画像他が見付りました。

ネパール山岳協会から、トレッキングピーク(簡単な届出で登れる山)に、
認定されている山ですが、ここ数年は申請者が0のようです。
山のグレートは、ノーマルルートからの登山がADで、
6097m Fairly Difficult(かなり難しい)。
と、表記されてます。


日の当たり具合から、この面が北壁と思われます。
壁への雪の付き方は年に寄って違うと思うが、岩主体の壁の様です。
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次に山の位置です。
古畑氏のFBで、ルクラ→パクディン→ナムチバザールと書いてるので、
エベレスト街道沿いから入った処に在る山に、違い有りませんが・・・
前に歩いた時にも、見える山々は、シェルパが説明してくれたので、
記憶に有るのだが・・・

トレッキングピークなら、1/12500の地形図に載ってると思い、
必死で探しましたが判りません・・・・
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Abiの位置は、上図の左側上の ロブチェ・イーストの傍ので表示してます。




1/50000の地形図で、やっと位置が判りました。
左やや上の赤線が、Abi 6090mと書いてます。
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アビ峰の標高が、6103m、 6097m(ヒマラヤ山岳協会発表資料)、 
6090m(政府発行1/5万地形図)と、3種類も有るのが不思議ですが、
ヒマラヤの山にはよく有る話です。
政府発行地形図が正しいと思うのですが・・・
地図販売会社でも社によって違いますから・・・


アビ峰は、クンブー氷河沿いに在り、
エベレスト・ローッエ・プモリ等の名峰を眺められる処です。


この秋は、竹内隊も〝未踏峰 マランフラン〟に挑戦中、ワクワクしてます。

10月31日 北京発の時事通信で、下記の記事が発表されました。
外貨獲得で、チョモランマを売り出す様です。

  
エベレストに登山拠点建設へ=観光活性化狙う-中国


【北京時事】世界最高峰エベレスト(中国名チョモランマ、8848メートル)の中国側の麓に大規模な国際登山センターが建設される。
宿泊施設を備え、ヘリコプターでの救援や医療の拠点とする計画で、建設地のチベット自治区などは、登山者誘致による観光業活性化を期待している。
31日付の中国英字紙チャイナ・デーリーが伝えた。


センターは同自治区ティンリ県で来年着工し、2019年に完成予定。
1億元(約15億円)以上を投じ、東京ドーム2個分の敷地に飲食・宿泊、
レンタカー施設のほか、登山博物館も設置する。(2016/10/31-15:32)

   中国チベット自治区から見た、エベレスト(EPA=時事)







ネパール側のエベレストBCは、エベレストをひと目見ようと、
観光客が押し寄せる賑わいですが、
カトマンズから登山基地の町ルクラ(2800m)まで、小型機で約1時間の飛行。
有視界飛行なので、天候が悪いと足止めされます・・・
2010年の時は、映画館が出来てたし、今ではスタバ珈琲店?も有るとか・・・
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上手く飛べても、エベレストBCまでは、高度順応しながら徒歩1週間の行程です。
高山病でBCまで到達出来ない方が、2割ほどいるとか・・・






チベット側は、ラサ(3600m)まで飛行機で、
四駆車で3日走れば、チョモランマBC(5200m)へ入れます。
道路はロンブク寺院まで舗装されてて、以降は砂利道ですが・・・
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ロンブク寺院(5150m)とチョモランマ全景。
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ロンブク寺院の傍には、観光客目当ての商店街が立ち並んでます。

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商店街からチョモランマBC(5200m)までは、砂利道4キロの距離。(衛星画像)
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商店街拡大図。衣食住が整ってるとか・・・
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チョモランマBC(5200m)拡大図。右側の四角い建物は、人民軍の監視所。
遠征隊のテント群が写ってます。
発電機とアンテナを持ち込めばテレビも見れるとか・・・
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チョモランマBC記念碑。後ろの建物は人民軍監視所。
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登山センターは、ロンブク寺院周辺に造られると思われます。
ネパール側と比べ、高度順応を上手く出来れば、歩かずチョモランマが拝めます。

ヒマラヤ Abi北壁の新ルートに挑んでいた、
日本登攀クラブ隊が、登頂を断念しました。

Abi北壁登攀までの経緯は下記で・・・



(黒字画像は、10月29日付けの古畑隆明氏のFBより)
予定通りゴーキョに入り、ゴーキョピークで順応、レスト、偵察、レスト、レストで明日いよいよアタックの為のベース入りし、明後日朝より登攀開始します。
偵察では往復12時間のアップダウン激しい道でかなり疲労しました。壁の状態は日本で調べていたより雪がかなり少なく、相当難しいことが予想されます。最大で登りに2ビパーク、下山1ビパークかと思われます。
僕達パーティが向かう山はゴーキョ北側にある
Abi6089m北面の初登攀を目指します。
では行ってきます!
古畑隆明 遠山学

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(黒字画像は、11月5日付けの古畑隆明氏のFBより)
10/30にゴーキョより出発しキャンプ地入りし10/31 3:00起床5:00出発アタックしました。
計画では5800m付近まで古畑、遠山でリードし残り300mを山野井さんに引き継ぎ完登を目指す予定でしたが想定外のコンディションもあり、完全に力不足で5650m付近まで行ったものの断念、5500付近でビパークの後、下山しました。
現在はパグディンまで下山しており、明日ルクラ、明後日にカトマンズへ戻る予定です。
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今は力を出し切ったのかなぁ〜と自問自答しながらも登攀を振り返ると登頂した後の下山を考えると正しい判断だったのだろう。自分に言い聞かせています。
薄い酸素の中、自分と世界が一緒になっているような感覚・・・。
今まで感じた事のない世界でした。
今は咳が止まりませんが、また来たいと思います。心配や応援して下さった方々。
ありがとうございます。 遠山。
.................................
3月にヒマラヤ行きを決めてネパール入りするまでの期間、精一杯のトレーニングを行ってきましたが、体力的に厳しかったと思います。どうしても登頂したい気持ちもありながらも敗退は止む得なかったかなと思っています。
敗退を決めた瞬間は悔しくて悔しくてたまりませんでした。
今は登攀の疲労から僕も山野井さんも遠山さんも体がボロボロになっていますが、最高の舞台でクライミングが出来たことは僕の中では最高の思い出となると思います。
またいつの日かヒマラヤでのクライミングに来たいものです!
応援、ご心配頂いた皆様ありがとうございました。 古畑。
.......................................
今回、Abi北壁登攀へのご支援を頂きました
株式会社モンベル様 ありがとうございました。



Abi北壁登攀の詳細は、【日本登攀クラブ】の下記HPに記載されてます。



後、約450mの垂壁を残しての撤退です。
一度のアタックで撤退とは・・・体力的に厳しかったと言ってますが、
添付された画像を見た限りでは・・・
フロントポイントでの長時間登攀は、大変だったと思っています。


先日の竹内洋岳氏の マランフラン 敗退もそうですが、
山の高低に限らず、記録の無い未踏ルートの登攀が、
如何に大変なのかを改めて知った次第です。


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勝手に登攀ルート予想して見ました。
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赤線 当初予定ルート
黄線 登攀ルート
   大雪壁直下で撤退し
        たと思われます。








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≪訂正とお詫び≫ 11月22日

モンベル社が、12月開講する〝冒険塾〟の案内を見てましたら、
下記の記事が載ってました。(棒線は小生が記入)

「初めての海外 ~アルパインスタイルで挑むヒマラヤ~」
古畑隆明氏、遠山学氏の両氏と世界屈指のクライマー・山野井泰史氏の3名が、
ネパール・ゴーキョの北側に位置するMt.Abi(6,103m、別名:Kangchung cholo)北壁の未踏ルートに挑戦。今回、ネパールから帰国直後のお二人にご登壇いただき、ヒマラヤでのアルパインクライミングの話をしていただきます。

山野井氏他2名がAbi峰に挑むと知った時に、Abi峰が何処に有るのかを探しました。
その経緯は下記に記してます。
ゴーキョの北側を探しても、Abiなる山名は無く、
ゴーキョの東にAbiなる山名を見つけました・・北側が切れていて標高もほぼ同じ。
これがその山と鵜呑みにしてました。

今回、冒険塾の案内で AbiにKangchung choloなる別名が有る事を知り、
再度 1/12.5万と1/5万地形図で確認しました。

何と、ゴーキョの北東4キロの処に、Kangchung cholo が有りました。
この地図は、1/12.5万地図です。コルを挟んだ双耳峰の様です。
西側はcholo  6089m 東側はKangchung Peaks  6063m と記されてます。
イメージ 7


1/5万地形図には、西側はcholo  6043m 、東側は無名で 6063m と記載。
山名が無かったり・標高が違う事は、ネパールの地図にはよく有る事です。
(マス目は1Kmメッシュ)
イメージ 8


この写真は、ネパール山岳協会がトレッキングピーク(当時36座)で紹介された、
Abiの双耳峰です。日差し具合からして、北側から撮ったものと思われます。
右側の山容が、古畑氏がFBで公開したAbiの画像と一致します。
イメージ 9

このAbi峰に関する記載に当たり、地図上の山の位置の下調べが杜撰で、
誤った情報をお知らせした事に、お詫び致します。
全てを書き換えようとも思いましたが、自戒を込めて≪訂正とお詫び≫としました。


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追記

Abiに関して、山野井氏が下山後に下記で述べてます。一読下さい・・・

戦前、立教大山岳部が、インド・ヒマラヤのナンダ・コット(6867m)に初登頂。
当時国内初の快挙、その時に使用したテントが80年を経て発見されました。

イメージ 1

イメージ 2

毎日新聞が報じた記事ですが、毎日新聞社が支援した遠征隊だったので、
この記事が書かれたと思われます。(他紙は記事にする意味は薄い)

山の呼称がナンダ・コートと為ってますが、
小生が覚えた頃は、ナンダ・コットと呼んでました。

この記事を読んで・・・
帆布(はんぷ)生地のテントが懐かしく、取り上げました。

帆布は、綿製で丈夫だが重く、雨に濡れると重さが倍増、冬はバリバリに凍ります。
大学山岳部時代に無雪期に使うテントは帆布製で、重くて苦しめられたものです。
積雪期は、BC用は帆布のカマボコ型、高さが有り居住空間は取れるが、
重さと凍るのが難点でした。
畳んでもキスリングに入らないので、それ様の木製背負子で担いだものです。
BCより上では、化繊のテントを使いましたが、冬山用のテントは市販されて無く、
たしか神田?の細野で特注で縫って貰ったものです。ウィンパー型が主流でした。
内張りが綿で、朝起きるとバリバリに凍ってる代物でした・・・

今はゴア製のテントが常識、隔世の感が有りますねぇ~

当時、1.2年生は冬用のヤッケ・オーバーズボンも綿製を着せられました。
滑落しても、スピードが出ないと言う理由で・・・
確かにそうでしたが・・・付いた雪が体温で溶け、風に当たるとバリバリ・・・
対策としてワセリンを生地に塗ってました・・・防水効果を求めて・・・
今では考えられませんね・・・
早く上級生に為って、雪の落ちるナイロン製を、着たいと思ったものです・・・
ナイロン生地一枚で縫製され、二枚仕立てのヤッケも有りましたが、
高価で買えず皆一枚生地を使ってました。
当時、ファスナーは凍ると噛みが駄目に為り、命取りに為るとの事で、
頭から被って着るタイプでした。体温調整が大変でしたが・・・
オーバーズボンは、ブッシュ等で切れ、継ぎはぎして着てましたが、
ヤッケは健在で今でも風防用として残雪期に使っています。

今は昔と比べ化学繊維物が進化し、快適な山歩きが出来ます。

明日は、久々に天気予報も良さそうなので、北八甲田の稜線でスキー登山の予定。

3月14日

若者の山離れが進み、山は中高年+爺婆の溜まり場と化してますが、
骨の有る若者達を紹介します。
最近の若者は、苦しい事・辛い事から逃れ、何考えてるのやら・・・と、
思うのは爺のヒガミでしょうか・・・

ネットを通して、知った若者達ですが、其々夢の実現に向けて頑張ってます。
何が幸せなのか・・・疑義・議論の有る事は承知してます。
彼等の夢や志を見て、遥か昔の青春時代に考えたものの、
実行に移す勇気が無かった爺が、ご本人達の了解を戴きましたので、
このブログを訪れてくださる皆さんに紹介します。


1人目は、安田順治氏
イメージ 1

彼の略歴です。(ブログより抜粋2012年6月時点)

【今まで行った苦行歴】
※ほぼ練習なしのノートレにての強行エントリーです。

☆河口湖フルマラソン(42.195キロ)
3時間49分04秒9022人中1807位

☆トライアスロン(スイム1500m・バイク40km・ラン10km)
2時間41分08秒で51人中第24位 クロスバイク使用
☆アクアスロンINよみうりランド(スイム500m・ラン4km)
28分6秒で35人中第8位

☆川崎ハーフマラソン1時間44分10秒

☆48キロマラソン(甲府~身延間)5時間26分
☆オープンウォータースイムIn御宿
遠泳3キロ1時間29分15秒
☆自転車3時間耐久レース←クロスバイク使用(Av: 27.48km/h)

☆100キロマラソン
52、7キロ地点負傷リタイア
7時間24分
→112キロマラソン完走にてリベンジ完了

☆取得した主な体力系資格
一級船舶免許、小型特殊船免許、
PW Cレスキュー水上安全指導員(ジェットスキー安全指導員)、大型二輪、ライフセーバーライセンス(プール系の日赤水上安全法救助員、海系のベーシックサーフライフセーバー)
日赤救急法救急員、パディダイブマスター(ダイビングガイド資格)
スキー2級、スノーボード1級、折紙講師、温泉指導員、
ダイエットインストラクター、ア ウトドアフィットネスインストラクター、ウォーク&ラン指導員、ノルディックウォーキング指導員、
ショートテニス指導員、ハンディキャップテニス指導員、
キャンプインストラクター、護身術アドバイザー、心理カウンセラー、
将棋二段などなど

☆海外放浪30カ国 6年間で
フィリピン(マニラ、セブ)タイ(バンコク、プーケット)アメリカ(ラスベガス、ニューヨーク、グアム、サイパン、アラスカ)、ペルー、アルゼンチン、ウルグアイ、メキシコ、モルジブ、インドネシア、オーストラリア、カナダ、南アフリカ、ケニア、ジンバブエ、ボツワナ、ドイツ、ポーランド、オーストリア、チェコ、ハンガリー、スロバキア、エジプト、スイス、イタリア、フランス、バチカン、モナコ、中国、韓国、ロシア

☆ダイブトリップ
セブ、グアム、サイパン、ハワイ、モルジブ、バリ、ケアンズ、プーケット

☆海外スキー&スノーボードキャンプ
スイスツェルマット、カナダウィスラー

☆登山
・無積雪期トレッキング
八ヶ岳(赤岳、硫黄岳、天狗岳)、日帰り大倉~蛭ケ岳ピストン、
剱岳~立山縦走、前穂高~奥穂高岳~槍ケ岳縦走、ゲリラ豪雨下白馬岳、
日帰り北岳~間ノ岳ピストン、日帰り甲斐駒ケ岳黒戸尾根、
日帰り鳳凰三山+地蔵岳オベリスク登攀(夜叉神登山口~広河原)、
奥穂高岳~ジャンダルム直登ルート~西穂高岳縦走、
御殿場駅~富士山山頂~河口湖駅50キロ徒歩横断、
日帰り前穂高北尾根ルート(バリエーションルート)、
明神岳主稜(バリエーションルート)
海抜0メートルからの富士山山頂

・積雪期&残雪期登山
山形蔵王熊能岳、宮城蔵王苅田岳、木曽駒ヶ岳、宝剣岳、八甲田大岳(&硫黄岳)、富士山、御嶽山、甲斐駒ケ岳、天狗岳、赤岳、北横岳-三つ岳-雨池山-縞枯山-茶臼山日帰り縦走、霧ヶ峰スノートレッキング、谷川岳、武甲山
赤岳主陵(バリエーションルート)
ジョウゴ沢(F3まで)、雲取山、高峰山、高尾山~陣馬山、丹沢大山、大倉~蛭ケ岳日帰りピストン
燧ケ岳柴安グラ~御池ピストン
会津駒ヶ岳、奥穂高岳、涸沢岳、槍ケ岳、立山、剱岳、
磐梯山東尾根(単独バリエーション)、日光白根山西面ルンゼ
(バリエーション単独登攀)

唐松岳、蓼科山、根子岳 
白馬岳 男体山、御前山
Pガーデン~箱根神山~強羅駅縦走 大岳山、武尊山、西吾妻山、高井富士、伊吹山 仙丈ヶ岳、鳳凰三山 甲信ヶ岳

☆海外遠征
エルブルース(5642メートルwithout snow cat)
タクラマカン砂漠自転車単独縦断1140キロ


☆スノーボードバックカントリー
八甲田大岳(&硫黄岳)山頂バックカントリー
富士山山頂バックカントリー(富士吉田口山頂、富士宮口2ルート山頂から滑降成功)
剱岳別山尾根ルート経由単独登頂&平蔵谷単独滑降(BCエキスパートルート)
日光白根山西面ルンゼ単独登攀&ルンゼ単独滑降(冬期登攀ルート単独登攀単独滑降)
磐梯山東尾根単独滑降(バリエーションルート単独滑降)
木曽駒ヶ岳山頂BC、御嶽山山頂BC、宮城蔵王苅田岳山頂BC、
谷川岳山頂BC、車山山頂BC、会津駒ヶ岳山頂BC、燧ケ岳山頂BC、
槍ケ岳槍沢BC、奥穂高岳小豆沢BC、立山山頂BC、入笠山山頂BC、
湯の丸山山頂BC、白馬岳大雪渓BC
武尊山山頂BC、高井富士山頂BC、西吾妻山山頂BC、伊吹山山頂BC
※上記富士吉田口ルート以外全て単独決行
唐松岳唐松沢本沢BC(上級ルート)、蓼科山山頂BC、根子岳山頂BC、

☆自転車
自転車本州横断(太平洋側横浜~日本海側糸魚川)
富士山1周(130km)
三浦半島1周(横須賀中央~観音崎~剣崎~城ヶ崎~新逗子)
浜名湖1周(90キロ)
大月駅~富士スバルライン~富士山山頂
自宅発~海(海抜0)からの高尾山山頂~自宅120キロ
太秦安井松本町~鞍馬寺~貴船神社~太秦安井松本町
川崎~小田原~川崎140キロ
川崎~八王子城~川崎100キロ
東京湾一周
川崎~伊豆半島縦断往復400キロ

☆徒歩
冬期九十九里浜徒歩縦断
御殿場駅~富士山山頂~河口湖駅50キロ徒歩横断
山手線徒歩1周
狭山湖&多摩湖1周ファンラン
酢が湯温泉~八甲田銅像間往復20キロファンラン
積雪期唐沢ナメ滝~唐沢鉱泉ピストン
秩父札所巡り徒歩100キロ
鎌倉1周徒歩
海から富士山山頂(沼津港~富士山山頂)
身延駅から身延山山頂徒歩往復
九十九里浜歩行縦断

☆カヌー
猪苗代湖カヌー横断往復
琵琶湖カヌー横断
霞ヶ浦カヌー横断往復 ※本州三大湖カナディアンカヌー横断達成!!

四万十川カヌー 那珂川カヌー 万水川&犀川カヌー 千曲川カヌー
中禅寺湖カヌー 桧原湖カヌー一周 青木湖カヌー一周 
小野川湖カヌー一周 四万湖カヌー散策 ならまた湖小石沢 
奥利根湖奈良沢 亀山湖

【これから挑戦する事】2012年6月以降の目標です。
北岳バットレス
槍ケ岳北鎌尾根ルート
穂高屏風岩登攀
白馬岳主陵
八ヶ岳主要登攀ルート完登
ユーコン川カヌー
知床カヌー1周
タクラマカン砂漠横断
トライアスロンロングディスタンス
ハセツネ杯トレイルランレース
富士山登山レース
冬季富士単独
キリマンジャロ登山
海抜0からのコジオスコ
アンデスチンボラッソ登頂
パラオダイビング
ガラパゴスダイブトリップ

驚くほどの資格取得と、海・山・川の活動範囲の広さに驚きです。

2012年以降、ユーコン川カヌーとタクラマカン砂漠横断を達成済みです。


彼は、2015年にモンベルが主催する〝チャレンジ支援プログラム〟に応募し、
〔タクラマカン砂漠自転車横断〕を敢行。
モンベル支援の概略 http://about.montbell.jp/social/challenge/


彼は、故植村直己氏・冒険家 大場満郎氏を心の師と仰いで、
苦境時には著書を読み返し勇気を貰っているようです・・・

今年夏には、中東最高峰イランのダマバント峰5671mに単独登頂し、
山頂からボードで滑り降りると言う信じられない計画です。
イメージ 2
ダマバント峰
ボードで剣岳・平蔵谷を滑り降りた実績が有るようです。
剣には毎年何千人も登りますが、平蔵谷から登る者は1%も居ません。
その狭いルンゼを、滑り降りようなどと考える人は稀です。
スキーでプロペラターンをして、滑り降りた話は聞いた事が有りますが・・・





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2人目は、紙谷哲平氏
イメージ 3

彼の略歴です(ブログより)

2009年4月 大学入学。「ハイキング同好会」という、可愛い名前で部員を釣って日
      本アルプス縦走をさせる体育会系サークルに入会。         
2013年3月 大学卒業と同時にカナダへ留学し、本格的に単独での登山を始める。
同年8月  カナディアンロッキー最高峰マウント・ロブソンに、下部氷河からケ
      インフェイスルートより全ルート単独、登攀・登頂。(ケインフェイス
      はフリーソロ)           
同年9月  アメリカ、ワシントン州 マウント・レーニア登頂。(パラダイス〜
      ディスアポイントメントクリーバー)   
2014年1月 バンクーバーより北極圏のホワイトホースへ移住。寿司屋でバイトを始
      める。
2014年6月 北米大陸最高峰デナリ(マッキンリー、6194m)に、
      ウェストバットレスより登頂。
2015年4月 ネパールにてダウラギリ(8167m)登山中、右腕麻痺、
      それに重なるようにネパール大震災が起こり6000mで登山断念。
2015年9月 東京で板前見習いとして就職。
2017年1月 働いていた寿司屋を辞め、再び登山を再開。
      同年4月のアマダブラム登山に向けてトレーニング中。


故植村直己氏が明大卒業後に、南米のアコンガグア登頂を志すも、
金が無く貨物船に乗せて貰って渡米、農園労働や皿洗いで資金捻出。
見事に単独登頂した頃の事を、彷彿とさせる略歴です。
半世紀前の故植村氏と同じ様な事をしなから、山に向かう若者に感激してます。


彼は今日(3月14日)、中国経由でネパール・カトマンズに出発しました。
アンナプルナサーキットをトレッキングし、画像のトロンピーク6201mに登り、
高度順応後に、アマダブラム峰6856mに挑戦です。
イメージ 5
トロンピーク

これがそのアマダブラム峰。ノーマルルート(画像中の黄色)からではなく、
西壁の黒線ルートから単独登頂を目指します。
イメージ 4


アマダブラム峰は、2006年に初めて海外遠征登山を試みた際に、ほぼ毎日眺めてました・・
西面から北面、東面まで・・・
どの稜・どの壁からも、小生には登れない・・・・と。
アマダブラム西壁です。
イメージ 6

アマダブラムです、ポカルデ峰5806mのBCからの画像。
イメージ 7

アマダブラム東壁です、イムジャッエBCからの画像です。
イメージ 8

イムジャッエ峰6180mの山頂からのアマダブラム峰         この山↓
イメージ 9
見る方向に因って、山容がガラリと変わる山です。

この山は、エベレスト初登頂者の、エドモンド・ヒラリーが、
エベレストの為の順応と訓練で初登頂してます。それが今のノーマルルートです。
後に山野井泰史氏が、1992年西壁を冬季単独初登頂に成功しました。

登る事より、降りる方が難しいと言われてる、アマダブラム西壁です。
何事も無く帰国される事を願ってます。

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